2008年10月17日

いじめで統合失調症になるの?

 ちょっと、いや、かなりびっくりの記事を発見してしまいました。毎日新聞の記事です。

いじめ訴訟:二審も因果関係を認定「いじめで統合失調症に」−−広島高裁 /広島 10月16日17時2分配信 毎日新聞

 一部、引用します。
 広島市立中学校に通っていた当時、同級生4人から暴行などのいじめを受けて統合失調症になったとして、鳥取県内の男性(20)と両親が、生徒とその親、同市、広島県に対して慰謝料約2600万円などを求めた訴訟の控訴審判決が15日、広島高裁であった。磯尾正裁判長は「いじめ行為と統合失調症の発症との間に因果関係が認められる」などとして、慰謝料の支払いを命じた一審の広島地裁判決を支持した。

 ??? 訳がわかりません。いつの間に統合失調症の原因が特定されたんでしょうか? それも、まずあり得ないと言われていた心因であると。

 たぶん、それはないでしょうね。最近すっかり翻訳屋さん、塾の先生になっちゃって、勉強不足の感が否めない私ですが、そんな大きな科学的事実が解明されたのだったら、さすがにどこかで情報をキャッチしていそうなものです。

 正直、かなり混乱しています。

 この記事(記事は必ずしも事実を適切に反映していないという観点から、「この裁判」ではなく「この記事」と表記します。)はそのほかにツッコミどころ満載なのですが、その辺は置いときましょう。なぜこんな判決になってしまったのか、その理由が知りたいところです。誰か偉い人、教えてください。いやホントに。
posted by Yosh at 03:39| Comment(8) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月16日

アダルトチルドレンは心理学用語じゃありません

 先日、報道ステーションでキャスターの古舘伊知郎さんが「アダルトチルドレン」という言葉を「精神的に未熟で、大人になりきれていない大人」という間違った意味で使っていたそうです。そして、後に謝罪したのだとか。

 ちょっと複雑。この、一見して心理学や精神医学などの学術用語のように見える用語、実はそちら方面の専門用語じゃありません。私が学生時代に、急に本屋にこの「アダルトチルドレン」という言葉を使った本が氾らんしたのを覚えています。しかしその割に、論文にはこの言葉、まったく現れてこなかったんですよね。

 ちなみに正しい意味は、「アルコール依存などの問題を持つ親に育てられた子ども」というのが基本路線らしいです。「基本路線らしい」というのはどういうことかというと、そもそも学術用語じゃないので、定義がかなりふらふらしているのだそうです。いつもの私と比べて、歯切れが悪いでしょ? だって心理学用語じゃないんだもん。

 一応、これらの言葉を使う人によると、機能不全家族の中で育った子どもには特徴的な、あまり好ましくない影響があるとされています。ホンマかいなと言いたくなりますが、やはり私が思ったのと同様の批判も数多くあるようです。ちょっと、科学的検証に耐えうる概念ではなさそうです。

 と言うわけでこの「アダルトチルドレン」、内容的にはいかにも心理学的な、しかし学術的にあまり省みられていないという奇妙な言葉なんですよね。こういう奇妙な現象、次のいずれかのパターンが考えられます。
  • 山師、もしくは科学的検証ができない素人が作った役に立たない用語

  • まだ学会では注目を集めていないが、実は価値のある用語


  •  この言葉が生まれたのは1970年代だそうですから、さすがに時間切れでしょう。私は少なくとも現段階では前者だと思っています。仮に後者だったとしても、それが明らかになった時点で改めて注目すればいいだけのことですしね。

     まあ古舘さんが間違った言葉遣いをしたのは事実ですが、正しい方の意味もこんな風に微妙な概念なので、ちょっと変な気分でした。少しずれるかもしれませんが、私の中ではたとえばテレビを見ていて
    「先ほど A 型の性格を大ざっぱと申しましたが、神経質の間違いでした。心よりお詫びを申し上げます。」
    と謝罪されたのに近いものがあります。
    posted by Yosh at 06:58| Comment(6) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2008年02月15日

    心の闇

     記事カテゴリーは「つまみ食い心理学」に入れていますが、今回は厳密には心理学の話題ではなく、心理学っぽいエッセーです。(エッセーなので、そんなに丁寧な論理的検証はしていません。考えようによっては少しずるい書き方だと感じる人もいるでしょう。が、言葉遊びをしているつもりはなく、自分なりに現実を洞察したつもりです。まあ例によって異論反論も大歓迎ですけどね。)今回のテーマは「心の闇」について。

     人間には誰しも心の闇が存在します。突然ふっとわき上がる他人への敵意と害意、相手や周囲のことを省みない自己中心的行動、他人の不幸を対岸の火事として眺めたり喜んだりする野次馬根性など。無邪気な悪意とでも呼べるようなものもありますね。それが悪であると気がついていない場合、たとえば最近流行りの(?)問題発言や、子どもがむやみに虫などの小動物を殺してしまうのは、これに当たるでしょう。

     よく思うのですが、そういった自分の中の心の闇と付き合うのが下手な人って多いような気がします。そして、そのせいで自分だけが苦しむならまだしも、外部にも悪影響を与える場合も多いような気もしています。

     付き合い方が下手な人というのは、2種類に分かれます。心の闇を過大評価する人と、過小評価する人。

     心の闇を過大評価する人というのは、あまりたくさんはいないような気がします。しいて言うなら中学生など、思春期以降の若い層にやや多いかもしれません。あるいは自分を芸術家タイプだと自認するような人も、このカテゴリーに当てはまる場合があるようです。そういう人は、良い言い方をすれば正義感がとても強く、自分の中にある心の闇が許せないようです。そして、悩む。極端になると、自分の中の理想像としての正義感と、現実の自分の持っている悪意とのギャップに苦しんだ挙げ句、自分を傷つけたり、自暴自棄になって周囲に迷惑をかけたりなどしてしまいます。そこまで行かないにしても、体をこわしたり、ふさぎ込んだりするくらいなら、そこそこあると思います。

     彼らの間違いは1点に尽きます。それは「そんな風な心の闇を抱えているのは自分だけである」というものです。大きな誤解ですね。彼らの欠点は、自分への洞察が過ぎて他人への洞察がおろそかな点です。そういう人たちが持つ心の闇くらい、他の人だって持っているのに、それに気がつかずに自分だけが特別だと思いこんでいるのです。

     人間には個性があります。みんな別の人。ですが、同じ人間でもあります。人それぞれの面もあれば、同じ人間だから共通している面もあります。心理学の世界では、これを「特殊性 (specificity)」と「一般性 (generality)」なんて言葉で表したりしますね。自分の心の中身というのは、一見明らかに個性が見られる分野のように思えます。確かに細かな内容面ではそうかもしれませんが、少なくとも何らかの心の闇を持っているという点では、これはほぼ人類共通です。自分のことを「聖人君主だ」とか「純粋だ」なんて本気で思っている人、まずいないでしょ?

     ですから、そういう人が身につけるべき態度、心の持ち方というのは「自分は特別ではない、ありふれた人間なんだ」という自覚をすることかと思います。要は、みんな同じように悩みながら生きてきたんだよってことですね。「同じアホなら踊らにゃ損損」と言いますが、どちらかというと人生楽しむ方向にシフトチェンジしてほしいものです。その方が周囲にも迷惑がかからないですから。←これが私の本音←ここら辺が私の心の闇

     そしてその逆、自分の心の闇に無自覚な人というのもいます。それもけっこう、たくさんいるように見えますね。いわゆるモラルに欠けた行動なんてのは自己中心的ですし、また多くの場合は自分が悪いことをしているという自覚のない無邪気なものでもあるでしょう。こういうことをする人は心の闇に無自覚と言えるでしょう。

     そして、彼らのうちのいくらかは、心の闇に敏感な人の場合とは別の意味での正義感の強さを持っていると言えるかもしれません。つまり、自分の正義を信じて疑わない傾向があるのです。他人の心の闇にばかり敏感で、自分の心の闇には気がつかない状態と言ってもいいでしょうね。

     まあすでに書いたように、別に心の闇くらいみんな持っているんだから、それに無自覚なのもさほど罪はないように思えます。確かに罪と言うほどではないのですが、近頃はその無自覚さに居心地の悪さを感じることもあります。

     少し前に、幼い子どもとその祖母が殺害された事件がありました。メディア報道の影響のせいか、その犯人を被害者である子どものお父さんであると思いこみ、それを願い、さらに始末が悪いことにそれをブログに書いてしまった星野奈津子さんという芸能人がいました。自分の心の闇に無自覚だったがゆえのミスですね。ここにまず最初の居心地の悪さを感じました。

     ただ、不用意なミスですが、はっきり言ってその程度の心の闇は何らかの形で誰しも持ってます。それに対し非難が殺到し、ブログが閉鎖され星野さんは1年間の芸能活動停止となったと聞き、改めて居心地の悪さを感じました。なぜなら、繰り返しますがその程度の心の闇はおそらく非難した人の大多数が持っているんじゃないかと思うからです。非難する権利がないとは言いません。日本には表現の自由、精神活動の自由がありますからね。むしろそういう人が一定数いていいと思います。ただ「自分だって似たような心の闇持ってるでしょ。面の皮が厚いな」と思ったわけです。

     ちなみにこれを「ネットの恐さ」とするのは適切ではないでしょう。なぜなら、このようなことは日常的に、インターネットが存在するよりも前から非常に数多く起きている、ありふれた光景だからです。(あえてネットの恐さと結びつけるとしたら、それが集団心理によって増幅される点でしょう。少し古い言葉ですが、数年前はこういう大騒ぎのことを「祭り」と称していました。文学的で、それでいて的確な表現と思います。)

     こういう人は、もうちょっと自分の心の闇を見つめて、自分の中に他人の欠点と同じようなものがあることに気づくべきだなと思います。そして、そこから他人、特に赤の他人に対する優しさを身につけてほしいなぁと、そんな風に思うわけです。そうすれば、世界はもう少しハッピーになるでしょうし。

     自分の心の闇のことはちゃんと知っておき、でもそれを笑い飛ばす。たぶんこのくらいがちょうど良いんですよ。きっとね。
    posted by Yosh at 02:32| Comment(11) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2007年10月17日

    好みと対人関係の心理

     仲のいい人と好みが合わないときってありますよね。人間同士ですから、好みが完全に一致するということはさすがにありません。で、それがわかったとき、けっこうビミョーな心の動きが起こることが知られています。

     ちょっと例を出してみましょう。高校生のケースケ君は B'z の大ファン。でも大好きなマホちゃんに「おっさんじゃん。イマドキ流行んないよ。」と言われてショックを受けています。こんな時ケースケ君は次のいずれかのように心境を変化させる可能性が高いのです。
  • ケースケ君は B'z のことを好きじゃなくなる

  • ケースケ君はマホちゃんのことを好きじゃなくなる

  • マホちゃんに B'z のことを好きになってもらおうと思う


  •  どうやら人間は、人間2人+物1つの関係の中に「嫌い」の数が「1個」か「3個」あるのを好まないようです。上の例は、全部「嫌い」が「0個」か「2個」でしょ?

     だからたとえば、こんなことも起こり得ます。社会人1年生の後藤君は、いつも沢木課長に怒られてばかり。正直、ちょっと苦手意識を持っています。ある日、嫌々ながら参加した飲み会で、実は課長が自分と同じアンチジャイアンツであることがわかりました。それを知った後藤君は……
  • 課長の見方がちょっと変わって、親近感を持つ

  • もしかしてアンチジャイアンツなんてバカげてる? と冷めてしまう

  • 課長と一緒はヤだな。アンチジャイアンツなんてやめてくれればいいのにと思う


  •  とまあ、こんな感じです。絶対そうなる! ってわけじゃないですけど、何となく納得いくでしょ? わかりやすくするために説明が単純すぎる面もありますので、もし詳しく知りたければ、「認知的斉合性理論」だとか、「ハイダーのバランス理論」といった言葉で調べてみてください。

     さて、一部の人にしか通用しませんが、ちょっと実験してみましょうか。少し前のことですが、私がくだらない、興味を持つ価値すらないと思っている某映画が上映されました。ところが、それについて、複数の知人が観に行って「オススメ」という感想を報告してくれています。正直、ちょっと信じがたいです。あの映画が良作のハズがない。

     ちなみに、その映画のタイトルは「ヱヴァンゲリヲン」です。さて、この映画を好きな方(特定複数)、いかがですか? 
  • えー、Yosh さん。そりゃちょっとどうよ? そんなこと言うなんて幻滅です

  • そんなことないよ、「ヱヴァンゲリヲン」おもしろいよ。観てみてよ!

  • そっか。「ヱヴァンゲリヲン」って、やっぱりくだらないのか……


  • の、いずれかの心理がちょこっと働きませんでしたか?(でも心配しないで! 上のはわざと大げさに書いているだけで、別に本気で「おもしろいなんてあり得ない」とまでは思ってませんから。)
    posted by Yosh at 17:32| Comment(4) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2007年10月02日

    言葉のサラダ(ワードサラダ)

     オレンジレンジを左向きに究極の沢登りし、タオルの朝青龍に磨く。シェーバー対集中治療室を感激したが、光に野蛮なルパン三世とのキック。
     このような、単語単語の意味はわかっても、全体の意味がわからない文章を「言葉のサラダ」あるいは「ワードサラダ」と言います。ちょっとおもしろくないですか? でもこれ、実は統合失調症のよくある症状のひとつなんです。

     数年前に、精神分裂病が統合失調症と名前を変えました。その理由は精神分裂病という言い方があまりに誤解を生みやすい、というかもうほとんど誤解させるための病名みたいになっていたからです。別に精神が2つに分裂するわけじゃないです。俗に言う多重人格と誤解されやすいんですよね。

     でも、ワードサラダを見ていると全然「精神分裂」って感じじゃないのがわかっていただけるかと思います。

     精神疾患の症状というのは、時として私たちの目にすごく不思議に映るものがあります。所詮は単なる脳の誤動作という見方もありますが、ある種の魅力を感じるのは私だけでしょうか。

     ところがこの魅力的なワードサラダ、最近ではちっとも魅力的でない形で発揮されている場面があるそうです。なんとスパムブログで意図的に用いられているのだとか。単に金儲け用のリンクが貼ってあるだけでは検索エンジンにスパムブログだと見破られるので、それを防ぐために機械的に作成したワードサラダを混入するのだとか。あほくさ。
    posted by Yosh at 20:14| Comment(0) | TrackBack(1) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2007年09月29日

    基本的帰属錯誤

    ◆アラブでは何に気をつける?

     まずはちょっとしたクイズです。

     もしあなたがアラブに旅行に行ったとき、次のどちらにより気をつけないといけないでしょうか?
    1) テロリストの破壊行為に巻き込まれること
    2) 交通事故に遭うこと

     アラブというと、どうもテロのイメージが強いですよね。答えを1) だと思った人も多いでしょう。しかし答えは2) 交通事故の方です。なぜなら、アラブのいずれの国でも、テロによる死亡者と交通事故による死亡者とでは、はるかに交通事故の方が多いからです。外国に住んでいるわれわれは、どうしてもアラブの国々にテロのイメージを重ねがちですよね。偏見にならないよう気をつけなければなりません。

     このように、イメージに引きずられて判断を誤ることを基本的帰属錯誤と言います。

     では別の問題。ドナウ川の長さは1000kmより長いと思いますか? 短いと思いますか? まずどちらかを答えてください。答えはまだ明かしません。そのまま次の問題にいきます。では、ドナウ川の長さはどのくらいだと思いますか?

     かなり多くの方が、1000km前後の数字を答えたのではないかと思います。最初の問題に「長い」と答えた人は、1100kmとか、1050kmとか、1500kmとかそういう答えだったんじゃないでしょうか? 「短い」と答えた人は800kmとか、900kmとか、そんな感じではないですか? だいたい、95%くらいの人が、そういう風に答えるようです。

     これは事前情報としての1000kmがあったせいでそうなった訳です。しかし答えは、2860km。全然違うんですね。これも直前に与えられたイメージに引きずられて判断を誤る基本的帰属錯誤の例です。イメージといっても、別に広く一般に広まったイメージとは限らないと思ってください。もしも最初の質問が「500kmよりも……」だったらまた、違った答えになっていたことでしょう。

     また、事前に「1000kmよりも……」という情報がなかった場合、同じ間違えるにしても当てずっぽうになって、みなさんの答えが1000km付近に集中することはないはずです。こういうのは基本的帰属錯誤とは言いません。

    ◆いろいろな基本的帰属錯誤

     では、基本的帰属錯誤を起こしやすい状況というのは、どんなものなのでしょうか? いろいろと見ていきましょう。

     日本に普通に住んでいるとアフリカについての情報が少ないので、ついついアフリカといえば未開の荒野ばかりが広がっているかのように思ってしまいます。実際にはアフリカにもかなりの数の大都会があり、当然のことながら大都会では高層ビルが立ち並んでいます。でもそういった当然のことも、ついつい思い浮かばないものですよね。

     あるいは「精神病患者は犯罪を犯すから隔離してしまえ」というような過激な意見を耳にすることがあります。これは人権問題のことは別にしても誤りです。実際には、精神病患者とそうでない人の犯罪率とを比較すると、差はないのです。だからこの意見は典型的な基本的帰属錯誤によるものです。

     それから、何か強烈なイメージをもったエピソードがある場合。あるいはそれが連続した場合。たとえばマスコミの加熱した報道なんかがきっかけで発生します。女子高校生の売春行為(いわゆる援助交際)が初めてマスコミに大々的に取り上げられたときは、まるで女子高校生のほとんどが援助交際をしているかのように思っている人もいたようです。若者の犯罪が続出したときには、十把一絡げに「最近の若者は危険だ」と感じた人もいたようです。危険な犯罪を犯したことがある若者と、そうでない若者。どちらが多数派なのかはちょっと考えればわかりそうなものですが、それでもついつい基本的帰属錯誤を起こしてしまうことがあるようです。

     こんな例はどうですか? 「オタクのほとんどは不潔で、ファッションに気を遣わず、声が大きい。さらに言うならデブや眼鏡が多い。」これは真実だと思う人もいるかも知れませんが、これも基本的帰属錯誤です。というのも、たとえば東京の秋葉原などで「不潔でファッションに気を遣わない声の大きい眼鏡のデブ」を見たらオタクだと認識し、それ以外のオタクを(たとえば他の街などで)見てもその人がオタクだと気がつかないため、実際のオタク内での「不潔でファッションに気を遣わなくて声が大きい眼鏡のデブ」比率を過剰に見積もっているからです。

     うそだと思うなら、例えば秋葉でデブの比率を調べてみてください。どちらかというと少数派のはずです。で、単なるデブが少数派なのですから、不潔でファッションに気を遣わない声の大きな眼鏡のデブはもっと少ないに決まってますよね。眼鏡だって、眼鏡が多いのは日本人全体の傾向であって、日本人の眼鏡比率とオタクの眼鏡比率とを比べて、オタクの方が多いという証拠はありません。「目立つ」「特徴的」と「多い」は全然違うのです。

     これらの例を見て、だいたい似たようなパターンがあることに気がつきませんか? 実は基本的帰属錯誤を起こしやすいのは、一部を見て全体の傾向を言おうとするときなのです。「今時の若い者は……」「女ってやつは……」「日本人は……」「政治家は……」なんてことが書いてあったら、かなり怪しいと思っていいでしょう。だって、それを言っている人がちゃんと「今時の若い者」や「女」や「日本人」や「政治家」について綿密に調査しているとはとても思えないですから。逆に言えば、そういうことを言いたければちゃんと調査してから言わないと説得力がないのです。

    ◆“かわいそうな”女子高生に見る基本錯誤

     では最後に、以前私が発見した興味深い基本的帰属錯誤の例を挙げます。これは、新聞の投書欄に寄せられた、ある女子高生の文章を要約したものです。
     スーパーで買い物をしていたときに、突然中年の女性に跡をつけられ始めました。私は不審に思い、その人に「なぜ跡をつけるのか」と聞いてみました。するとその女性は「あなたたちみたいな女子高生は放っておくと万引きしたり悪さするからね。見張ってあげてるのよ。」と答えました。

     私はあまりの悔しさに涙が出ました。「女子高生は万引きをするものだ」なんてとんでもない偏見です。たいていの人は万引きなんてしないのです。それを大人たちも理解してください。
     この女子高生には同情を禁じ得ません。ここで登場した中年女性は明らかに基本的帰属錯誤によって、女子高生と万引きを結びつけています。同じような理屈が許されるとするなら、主婦の万引きもしばしば問題になっていますし、その見張りをやった人も見張られていいことになっちゃいます。

     しかし、おもしろいのはここではありません。実はこの女子高生も基本的帰属錯誤をしています。最後の文を見てください。「それを大人たちも理解してください。」とあります。この女子高生は、たまたまその変な中年女性に捕まったがために、「大人のほとんどは女子高生を万引き犯扱いする」という基本的帰属錯誤に陥ってしまったのです。そんな変な人、そうそういませんよね。

     基本的帰属錯誤は、人間認知の典型的パターンが引き起こす誤りです。だからある程度防ぎきれないんですが、気をつけたいものですね。
    posted by Yosh at 09:19| Comment(1) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2007年07月16日

    心理学から見た光市母子殺害事件の裁判

     先日行われた光市母子殺害事件の裁判には、いろんな意味で国民的関心が寄せられました。かなり多くの人たちが心を痛め、また怒りを感じたことと思います。ほんの少し前と比べ、インターネットの進歩により細かな情報がたくさん入るようになり、いろいろとこの件について、あるいはこの件を通じてたくさんのことを学んだ方も多いと思います。

     加害者、そして弁護側の陳述について、もちろん私も思うところはあります。が、今回は倫理観や社会正義、国民感情、思想等の観点からは何も触れないことにします。そういった価値判断や、背景情報はあえて一切無視して、科学的(心理学的)観点のみで分析していこうと思います。特に、日本福祉大学教授の加藤幸雄氏が述べた加害者の犯罪心理鑑定については、少し詳しく見ていきます。

     まず、事件については Wikipedia に項目があるのでそちらを参照してください。この事件について、日本福祉大学の加藤幸雄教授(臨床心理学・社会心理学)が犯罪心理鑑定を担当しました。

     ……って、あれ? 何その「犯罪心理鑑定」って? 精神鑑定と違うの?

     実は初耳です。調べてみたところ、精神鑑定と似て異なる、情状鑑定というものがありますが、それのことでしょうか? 精神鑑定は精神科医が担当し、犯行当時に精神疾患等で責任能力があったかどうかを判定します。情状鑑定というのは、臨床心理学者が担当し、生い立ちから犯行に至るまでの経緯をひもといていき、そこに情状酌量の余地があるかどうかを判定していくもののようです。これのことかなぁ? まあとりあえず前提として押さえておきたいのが、これが精神鑑定ではないということです。責任能力を判定する権限も責務も加藤教授にはありません。だから、報道でも責任能力についての言及がなかったはずです。

     さて、この犯罪心理鑑定について、2つの切り口から批判します。私の結論としては、「こんな愚にもつかない鑑定は時間の無駄であり、証拠として一切採用する必要はない」です。

    (1) 鑑定員により紡ぎ出された「ストーリー」の問題

     加藤氏は 「私なら、(早い段階で自分に鑑定が求められていれば)世間に“性暴力ストーリー”と取らせず、“母胎回帰ストーリー”と示せた」という趣旨の言葉を述べています。(ただしこれは本人の発言そのままではなく、マスコミがまとめ直した言い方です。だからといって本論の趣旨は揺るぎませんが。)もう少し厳密には、「調査結果を精査していれば母胎回帰のストーリーが見えてきたはず。なぜきちんと吟味しなかったのか」と述べています。要は、「加害者は性暴力を奮いたかったのではなく、母親に甘えたかったのだ」と言いたいようなのです。つまりここでのストーリーというのは、要は「犯行に至るまでの心情」とかそんな感じの意味ですね。この「ストーリー」という言葉、実は非常に大きな意味を持ちます。

     臨床心理学には大きく3つの学派があります。精神分析学、人間性心理学、そして行動療法です。この中で、対象の「過去」や「ストーリー」に着目するのは精神分析学だけです。加藤教授も、この精神分析学の立場で鑑定したものと思われます。

     ところがこの精神分析学という学問、事実を見いだすのが非常に苦手なのです。精神医療の現場では「病気が治りさえすれば事実なんて別にいいじゃん」という考え方の心理士も多く見られるくらいです。精神分析学も細かな学派に分かれますが、その小学派によって言うことがバラバラでも「それはそれで構わない」とすら考えられています。そういった態度に対して、こんな皮肉も聞かれます。「同じ患者について診たとしても、フロイト派はそれを性衝動の抑圧と解釈し、ユング派はコンプレックスと解釈し、アドラー派は劣等感と解釈する。」と。病人であれ犯罪者であれ、事実となるストーリーはひとつのはずなのに、なぜこんな風に複数のストーリーが発生しうるのでしょうか?

     それは、精神分析学の手法から導き出される「ストーリー」というのは、事実とは無関係の作られたもの――フィクションだからです。フィクションだとすれば、いくらでもストーリーを作ることは可能です。この話について丁寧に説明がされているウェブページを紹介しましょう。(精神科医の風野春樹さんによる「サイコドクターあばれ旅」というサイト内の文章です。本論の趣旨を深く理解するという点からはもってこいです。)なお、この文章が事件とは何の関わりもなく書かれていることにも気をつけてください。つまり、別に検察側に肩入れして書かれた文章ではないということです。

     以上から、加藤氏の鑑定結果が事実とは無関係のフィクションであるということがわかりました。みなさん、こんな鑑定に意味があると思いますか? もし仮にこの裁判でこの証拠が採用されたとするならば、日本心理学会、日本心理臨床学会、日本臨床心理士学会など、関連学会は強く抗議すべきでしょう。科学的事実を元に社会貢献ができない学会なんて世の中に要りません。

     と同時に。精神分析学の専門家ですら、このように紡ぎ出されたストーリーがフィクションであることは十分に認識しています。仮に加藤教授がそれを知らないとしたら、素人?である私ですら知っている常識を知らないトンデモ教授と言うことになります。もし知っている上でこんな発言をしたとするなら、ある種の偽証です。いずれにせよ、裁判から排除すべき人物であることは間違いありません。

    (2) 人の記憶は常に歪み続ける

     今度は認知心理学の観点から、人間の記憶の性質を元に語りましょう。これは心理鑑定だけでなく、弁護側の主張全体に言えることでもあります。したがって、加藤教授が見いだしたという“母胎回帰ストーリー”だけでなく、加害者や弁護側がこの差し戻し審で突然言い出した突拍子もない証言の両方を分析の対象とします。被害者遺族の本村さんが「聞くに堪えない」と表現したその証言の数々、仮に本当だとすれば、裁判の趨勢は変わってしまうかもしれませんからね。これの真偽は重要です。

     大きく報道された通り「被害者に母親を見いだし、甘えたかった」「ドラえもんを信じている」「蘇生の儀式」などの言葉の数々、多くの方が唖然とし、怒りを感じたことと思います。弁護団や鑑定士主導でこれらの証言が「引き出された」とにらむ人も多くいるようですね。

     まあしかし、実は誰が主導かなんてのはどうでも良いんですよ。というのも、記者会見で弁護団は語るに落ちているんですから。
    「ねつ造された事実のもとで記憶を埋没させられたものを彼は一生懸命、記憶を甦らせることができる事実を法廷で語ってくれた」(弁護団)
     じゃあ弁護団の言うとおり、仮に警察なり検察なりが、証言を強要するなどして記憶を埋没させたとしましょうか。だとすれば、そこから記憶を事実通りに修正するなんて不可能なんです。だって、人間の記憶はビデオテープのように正確なものじゃなく、時が経つにつれどんどん「わかりやすく」「自分の都合の良いように」変化していく性質があるんですから。

     これは本当に単純な例ですが、記憶を取り扱ったこんな実験があります。
    image.gif
    この妙な図形を記憶しておいてもらい、日にちを置いて思い出してもらいました。ほとんどの人が「バーベル型」か「めがね型」の図形を“思い出した”のです。変で覚えにくい図形を、わかりやすい形に記憶の方が歪めてしまったわけです。日常経験でもよくありませんか? 昔の写真やノートなんかを引っ張り出してきたら、案外思っていたのと違っている点が多いっていうこと。しかも、こんな風に客観的証拠を見せられても違和感を感じることすらありますよね。

     しかも、これらの記憶の歪みは、誘導によって容易に起こされることがよく知られています。ちょうど、(1) で触れた「精神分析学は事実を見いだすのではなく、フィクションのストーリーを作り出す」という批判の論拠のひとつにもなっている知見なんですけどね。“有能な”弁護士や心理学者なら、記憶はねつ造し放題でしょう。

     つまり、いったん“ねつ造”された記憶はもう元には戻りません。逆に、新たなねつ造で上書きされてしまうことならあり得るわけです。つまり、物的証拠もないのに、このタイミングで突然出てきた新たな証言は、どういう形であれ当時を正確に思いだしたものにはなり得ない――絶対に事実ではないのです。こういった認知心理学の知見と記者会見で弁護側が言っていたこと(上に引用した文です)とを踏まえると、弁護側の証言はすべてねつ造で、一切無視していいという結論になりますね。(ねつ造だという事実さえわかれば、ねつ造の首謀者が誰なのかなんてどうでもいいでしょ?)この私の言い方はあまりに過激で極端すぎると感じる人もいらっしゃるかもしれません。ただ、そんな方でも、弁護側の方法論が事実を追求するのに適切なやり方ではないこと自体は納得していただけると思います。

     よく思うのですが、司法の世界は人間の記憶の性質に関してあまりに無知すぎませんか? 穿った見方をするなら、無知なふりをしないと現在の司法は成り立たないのかもしれませんけどね。

     そして、これも心理学の基礎事項。加藤教授がこのことを知らないにしても、知っていて無視しているにしても、いずれにせよ大きな問題と言えましょう。裁判の場に立つ能力というか資質がないと思います。

     そして最後に。心理学者・学会のみなさん、もうちょっとちゃんと声を上げるべきじゃないですか? 繰り返しますが、ロクに社会貢献もできないような学者は給料ドロボーですよ。「心理学は役に立つ学問である」という認識を世間に持っていただくためにも、もう少し積極的になる必要があるんじゃないですかね。
    posted by Yosh at 00:51| Comment(15) | TrackBack(1) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2007年06月25日

    続・ゲームと精神障害

     先日紹介した「ゲーム中毒を精神障害と認定せよ」という提言があったというニュースについての続報です。これを紹介したロイターの記事は、けっこう切れがありますよー。一部引用しますが、特に重要と思える部分を私の判断で太字にしてお送りします。
    ゲームのやり過ぎは中毒症状ではない=米専門家
    6月25日19時51分配信 ロイター

     [シカゴ 24日 ロイター] 米国の精神科医らは24日、いわゆる「ゲーム中毒」をアルコール依存症と同様の精神疾患とは位置付けない考えを示した。米国医師会(AMA)の年次総会で明らかにした。
     米国で影響力のある一部精神科医のグループは先に、診断の際に参考にされる専門書の中に、「ゲーム中毒」を精神障害として加えるよう提言していた。
     総会では、中毒症状の専門家らもそうした方針には強く反対、ゲーム人口の約10%が問題を抱えているとされる「ゲームのし過ぎ」について、さらに研究を進める必要があるとの認識を示した。
     マウントシナイ大学のスチュアート・ギトロー博士は「(ゲーム中毒が)アルコール依存症やその他の薬物乱用障害に並ぶ病状だと示すものは何もない」と指摘。その上で、中毒という表現を使うことについても疑問を呈した。
     精神障害と位置付けられれば、「ゲーム中毒」にも保険が適用される可能性が出てくる。
     今回の総会で精神科医のグループは、科学的な裏付けが確認されれば、2012年に発行される同専門書の次回版で「ゲーム中毒」の項目追加を検討する可能性があるとしている。
     AMA が出した見解は素晴らしい常識的なものだと思います。最大のポイントは、現状、ゲームのやり過ぎを中毒症状ではないと言っていることではありません。今後、さらに科学的な研究をして、はっきりさせるべきであると言っている点です。

     前回も書きましたが、最初の提言をしたアメリカ医療情報学会は、主張の細かな面が非常に荒っぽいんですよね。前回の記事には書きませんでしたが、政治的な意図も見え隠れしているように思っています。そんな中での「ちゃんと研究してから決めよう」というこの見解は、当たり前のことではありますが、その当たり前が達成できているのが大事です。

     余談になりますが、ロイターのこの記事のまとめ方自体も素晴らしい出来ですね。必要十分な内容にきちんとまとめ上げています。今まで「新聞の書き方には限界があるから、ダメな記事があるのは仕方がない」と思っていましたが、もしかしたら単に日本の新聞のレベルが低いだけなのかも知れません。優秀な記者はフリーになっちゃうんでしょうかね。

     この記事における細かく行き届いた配慮はいちいち説明しきれませんが、もっとも単純な例として DSM のことを「診断の際に参考にされる専門書」と簡便に、適確に表現しているところを挙げておきましょう。これはたとえば OS のことを「基本ソフト」と言い換えて、結局意味がわからないまま放っておく日本の新聞とは大違いです。
    posted by Yosh at 21:22| Comment(0) | TrackBack(1) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2007年06月16日

    「精神障害」にまつわるニュースに思う

     どうやらここ数日で「精神障害」という言葉を使ったブログ記事が多数出ているらしく、いろんなところで使用ワード上位に来ているのを見ます。たまたま2つのニュースが重なったからでしょう。

     ひとつは、アメリカの学会がゲーム中毒を精神障害に分類するよう提言したというニュースです。よほどインパクトがあったらしく「俺って精神障害なの?」って日記が方々に多数上がっていました。

     ちょっと事情を整理しましょう。これはアメリカ医療情報学会(AMA)という学会の主張に過ぎません。現在、精神障害の診断にもっとも権威があるとされているのは DSM-IV というガイドブックだと思います。アメリカで広く使われ、日本でも非常に強力な指針とされているものです。で、このニュース、別にゲーム中毒が DSM-IV に載ったというものではないのです。単に、AMA が載せろと言っているだけです。

     ちなみに個人的には「ゲーム中毒は精神障害として扱うべきである」という主張そのものには賛成です。元記事にもありますが、明らかに他の精神障害に酷似した症状を多数見せるからです。まあ記事を見る限りだと、細かな点でものすごく隙が多いことを言っている学会のようで、各論反対の面もあるんですけどね。ただ、反対の理由は少し専門的すぎると思うので、ここでは割愛しましょう。(この点について私がどんな主張をしたいのか興味がある方は、別途リクエストください。もちろんコメント欄などで OK です。)

     さて、自分が精神障害かどうか気になる方にお答えしましょう。そんなものは「程度による」です。ゲームが原因かどうかとか、本質的にはそういうのは関係ないんですよ。自分の行動パターンが病的かどうか、ただそれだけです。

     あと、怒っている人も相当いるようですが、それも違うと思いますよ。そういう人たちは精神障害者への差別意識があるんじゃないですかね。「キチガイ扱いされた」(←あえてこの表現を使いますが、意図は酌んでくださるかと思います)みたいな感じの。

     もうひとつのニュースは07年版の障害者白書で、精神障害者が増えたというもの。ソースは読売でも毎日でもいろいろあるんで、テキトーにお探しください。300万人を突破したそうです。

     白書をまとめた内閣府は、原因として「高齢化に伴うアルツハイマー病の増加」「現代社会のストレスの増加や、心療内科の増加などで医療機関を受診しやすくなったからではないか」なんて分析をしているそうです。

     こんなもんは現場のお医者さんがいれば、簡単に種明かししてくれるのにね。恐らく最大の理由は、うつ病の診断基準が昔に比べて大幅に緩くなったからですって。要は、障害者と「見なされる」人が増えたのが、この数字の最大の原因かと思います。多分だけど。でもこの憶測にはけっこう自信ありますぞ。
    posted by Yosh at 21:41| Comment(17) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2007年05月22日

    番組中止という無意味な“配慮”

     今日のテレビドラマ『セクシーボイスアンドロボ』ですが、放送予定だった第7話が中止され、第2話の再放送となりました。公式サイトによると、「第7話のストーリーが実在の事件を想起させるため」だそうです。おそらくは先日愛知県で起きた立てこもり事件のことでしょう。なお、この話が後日放送されるかどうかは未定だそうです。

     テレビ局の世間体はそれで保たれるかも知れませんが、まったく無意味な配慮です。この“配慮”には、穿った見方をせずに考えた場合、2つの“意味”があると想定されます。今回は、その2種類の“意味”を心理学的な観点から論破していきます。

     まず、事件の被害者の方や亡くなられた警官の方にまつわる方々への感情的な配慮という意味です。もちろんこれらの方々は大変気の毒であり、そういったことを思い出させるようなものにはできるだけ触れたくないという感情はごく自然です。

     では、「触れたくないなら触れない」のが優しさなのでしょうか。実際には逆です。たとえ触れたくないことであっても、少しずつでも触れた方が精神的には望ましいからです。以前、JR 福知山線脱線事故と PTSD 対策という記事を書いたことがあります。事故の被害者の方の多くが、その話題に触れたくないと感じているという調査結果を紹介し、そのことの弊害を嘆いた記事です。この時の記事では嘆くことしかできませんでした。なぜなら、大きなお世話というような意見も成立しうるからです。しかし今回はどうでしょう。変な配慮をする方が逆に大きなお世話です。

     以前、映画『ロード・オブ・ザ・リング』第2作目 "The Two Towers" 『2つの塔』という副題を変更するように要請する署名運動が起こったことがありました。全米同時多発テロの被害にあったニューヨークのツインタワーを想起させるというのが、その理由です。幸いにしてそのような愚かな要請は却下されましたが(変更に反対する署名運動も起きたのです)、なんともげんなりする話でした。

     想定される第2の意味は、模倣犯の防止です。これも意味がないですね。近年はテレビなどのメディアの影響がよく喧伝されていますが、実はこんなにバカげた話はないのです。心理学の世界で、これまで「メディアが暴力などの犯罪行為を誘発する」ということを証明してみせた人は世界中にいません。当たり前です。そんなこと心理学で証明できるはずないんですから。

     そのようなことがまことしやかに言われるきっかけとなったのは、アメリカの心理学の世界での政治的な意図であると指摘する人もいます。まあ理由はどうでも良いんですよ。ただこの問題、心理学では直接的な証明不可能な上、比較的類似した条件での間接的な検証でも、結果は否定的なのです。ごく小さな子供に多少の影響が見られる程度で、年齢により(恐らく社会に触れることにより、という理由と想定される)その影響がどんどん減っていくことが知られています。こんな状況であるにもかかわらず、メディアと暴力との関係を断言形で肯定する人は何人もいます。正直、直ちに科学者を辞めてほしいです。

     「しかし模倣犯も現実にいるじゃないか」という反論も予想されます。が、だとしてももう遅いですよね。事件は起きてしまったんだから。それに、「きっかけ」と「原因」というのは混同されがちですが、まったく別物であることにも注意しなければなりません。

     たとえばあるテレビ番組を見て、それが凶悪事件のきっかけになることはあっても、その番組のせいじゃないですよね。完全にその人のせいです。なぜなら、そういう人は、それ以外の何かを見てもきっかけにしてしまうからです。第一、きっかけになるものはテレビ番組のような作られた物とは限りません。世界中からすべての「きっかけになりそうなもの」を消し去ることは不可能ですし、また、労多くして実りがない試みでもあります。

     メディアと暴力との関係については、以前から書きたい書きたいと思いながら実現しないでいます。でも、いずれまたきちんとした形でまとめてみたいと思います。
    posted by Yosh at 22:51| Comment(7) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2007年04月27日

    頭の良さにも個性がある

     昔、死んだ祖母がこんな事を言っていました。
    「若い頃は他人の頭が悪く見えたけれど、今は他人の頭が良く見えるようになった。」
     一見、単純な話ですが、その本当の意味を心から理解するには、6歳の子供には難しすぎました。ばーちゃんのこの話、ここ最近になってやっとわかってきたような気がしています。子供には無理だよ、ばーちゃん。そう思う反面、いい話をありがとう、とも思っています。

     さて今回は、「頭が良い」というのはどういうことなのかについて書いていきます。知能は心理学の世界でも、昔から大きな研究テーマのひとつと見なされてきました。心理学が知能というものをどう捉えているのかというお話です。

     世の人が「頭が良い」「頭が悪い」という言葉を使うとき、往々にしてごく狭く、しかも個人個人が勝手な意味で使用しているという印象を私は持っています。特に中高生などの子供達。彼らがこの言葉を使うとき、ほとんどの場合が「成績が良い・悪い」と同義です。「うち、頭悪いから、良い高校に行けないもん」と。不用意にもこんな事を言ってしまった中学生は、気の毒にも私の説教を喰らう羽目になるわけです。

     大人であれば、学校の成績が必ずしも頭の良さと直結しているとは考えないですよね。社会人、特に会社員になった人はたいてい、新人時代に上司から言われるはずです。「もっと頭使え」と。でもね。仕事ができるのと頭が良いのとも、必ずしも一致するとは言えないんですよね。

     じゃあ、頭の善し悪しって結局なんなのでしょう。古典的な心理学においては、いろんな説が提唱されました。ホントもう、各人各様好き勝手に。たとえば、一元的な頭の良さというのが決まっていて、基本的に何か(たとえば暗記)が得意な人は、なんでもできるという考え方があります。その逆に、知能というのはいろんな項目(たとえば「記憶」「空間把握」「言葉の知識」「計算力」など)に分かれていて、それぞれに得意不得意があるという考え方もあります。その中間の、基本的な頭の良さってのはあるけど、項目に分けると得意・不得意というのもある程度出てくるという考え方もあります。結局、最後の中道的な考え方が無難であるということで、多くの支持を得たようです。いわゆる知能テストもこのような考え方を元に作られています。

     しかし、20世紀後半になって、そのような考え方すら視野が狭いと考える心理学者も出てきました。だって、頭の良さってのは脳が巧く回転するってことですもん。ということは、たとえば計算とか、たとえば記憶力みたいな、いかにも勉強っぽいものばっかりじゃないですよね。とっさの機転、ひらめきなどももちろん頭の良さです。

     では、音楽能力はどうでしょうか? これを頭の良さに結びつけるのは無理があると思いますか? しかし、音楽を構成する、たとえば作曲をするのって、高レベルになると音を頭の中で組み上げていくという知的に非常に複雑な作業が含まれてきますよ。明らかに、独特の脳の回転が必要ですし、それができるようになるための訓練も必要です。

     対人関係を円滑にしていく能力は? 相手の意図や意志、気持ちを読み取ったり、自分の意志を上手く伝えたり、集団の力関係を見極めたりなど、いろんな要素があります。相手に自分がどう思われるのかを考えるのも重要ですよね。これも明らかに頭を使っています。

     運動能力の中にすら、頭を使う要素が満載です。どちらの足で、どのくらいの助走をつけ、どのくらいの角度から、どのくらいの強さで、どういう回転をかけて蹴ったら、ゴールのどの辺りにボールが行くのか――これはサッカーのペナルティキックの例ですが、優秀なプレイヤーはこれを瞬時に計算して、実行に移すのです。

     このように考えていくと、いろいろな「頭の良さ」があるということがわかります。つまり、頭の良さというのは決して一元的なものではないのです。極端に言えば、ひとりひとりに個性的な頭の良さがあり、頭が悪い人などいないのです……って言い切っちゃうとホントに極端だな。まあそれは大げさにしろ、「頭の良さにも個性がある」というのは事実と断言して構わないでしょう。

     以前、ある人に思わず感心して、「頭良いなぁ……」と言ったことがあります。その若さに似つかわしくない、大人びた言動、態度、そしてしっかりと座った真っ直ぐな心根に対しての評価です。私は「頭の良さ」について、ここで書いてきたような認識を持っているので、この言葉はごく正直な感想でした。

     しかし、相手からのリアクションは「そんなことないですよ。私は頭悪いです。買いかぶりすぎですよ。」というものでした。思い直せば、こんな私の言葉遣いは、何の説明もなく用いても相手に通用するはずがありません。本当に頭が悪いのは私の方だなと、この時は反省しきりでした。
    posted by Yosh at 08:58| Comment(6) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2007年04月22日

    人を見殺しにする心理――傍観者効果

     JR の特急列車内で、女性が暴行を受けるという痛ましい事件が起きました。私は、この手の力(腕力に限りませんが)の強い者が弱い者を虐げる犯罪には、特に強い怒りを感じます。
  • 特急車内で女性暴行=誰も通報せず、36歳男逮捕−大阪(時事通信)
  • <強姦>特急内で暴行、容疑の36歳再逮捕 乗客沈黙(毎日新聞)

     上記のネット記事から事件のあらましを簡単に紹介します。昨年8月、容疑者の男は特急車両内の座席で女性を脅迫し、トイレや洗面所に無理矢理連れ込んで強姦におよびました。座席からトイレに移動する間を複数の乗客が見ていたものの、それを誰も車掌に通報しなかったのだとか。なお、男はそれ以降にも同様の罪を繰り返してすでに一度逮捕されており、公判中でした。男は容疑を認めています。

     ここまでを読まれて、不思議に思ったり、怒りを感じたりした人もいるのではないでしょうか。「なぜ、誰も通報しなかったのか?」と。今回はこの悲しい事件を題材に、社会心理学のテーマのひとつ、「傍観者効果」について説明したいと思います。

     実は、このように衆人環境の中、堂々と犯罪行為が行われるという例は過去にも多数あります。アメリカでも1964年、「キティ・ジェノベーゼ事件」と呼ばれる暴行殺人事件がニューヨークで発生し、大きな社会的インパクトを与えました。事件は被害者の自宅アパート前の駐車場で40分間におよび、そして40人近い目撃者がいました。しかし、目撃者は誰ひとりとして警察へ通報しなかったのです。

     世間の人は、当初はこれを都会人の冷たさと解釈したようです。しかし、社会心理学者がこの現象に実験という手段でメスを入れ、むしろどのような人にでも起こりうる心理であることを証明しました。これが傍観者効果です。

     では、傍観者効果はなぜ、あるいはどのようなときに発生するのでしょうか? 主な要因として次の3つが挙げられています。
  • 責任分散
  • 多元的無知
  • 評価懸念

     責任分散は「たくさん人がいるんだから、無理に自分がやらなくてもいいや」という心理です。多元的無知は「みんなが動かないんだから、もしかしたら大したことないんじゃない?」という心理です。そして、評価懸念は「もし私がここで行動して、変な目で見られたらどうしよう」という心理です。

     いかがでしょうか。ここまで、周囲の乗客に対して「なぜ通報しなかったんだ」と怒りを感じていた人も、少し矛先が鈍ってきていませんか? 上に挙げた3つの要因、「そんな気持ちは何ひとつない」と言い切れる人は皆無に近いのではないかと思うのですが、いかがでしょうか? 傍観者効果は誰にでも起こりうるのです。それも、「たくさんの人がいたのに」ではなく、「たくさんの人がいたから」起こるのです。

     さて、ここまでが社会心理学のトピックとしての「傍観者効果」の説明です。ここからは、私個人の意見を書かせていただきます。

     傍観者効果が発生してしまったこと、今回の事件で言うと周囲の乗客を責めることは簡単です。しかし、これは何の意味もない行為です。なぜなら、傍観者効果は(倫理的に正しいかどうかは別として)人間として普通のことだからです。正しいことと、普通のこととは別のことです。人間は特に何かに影響されなければ、普通のことを選びます。それを責めても嘆いても、何も変わることはありません。世の中はちっとも良くなりません。

     ではどうすればいいのか。世の中を劇的に変えることは無理かも知れません。でも、少しだけ変えることは不可能ではないはずです。いちばん単純な方法は、自分自身が勇気を出すことです。1人が変われば、それだけで少しだけ、ほんの少しだけですが世の中は変わります。今回のケースでは、勇気は知識から生まれ得ると思います。

     「たくさん人がいたら、責任分散が起きて誰も動かなくなってしまう。私が動こう」「みんなは動かないけど、これは多元的無知だ。自分の価値観を信じて行動しよう」「目の前で困っている人を助けることに、人目を気にする理由なんてない」――これらはいずれも真実ではないでしょうか。

     ただし一方で、大げさに格好をつける必要はないとも言えるでしょう。たとえば、自分から飛びかかって大立ち回りをするのは、自分だけでなく周囲にも危険がおよぶ可能性があります。状況にもよりますが、その場に責任がある、信頼できる人(たとえば警察官)にバトンタッチするだけでも、れっきとした救助行動なのですから。ホットなハートは、クールなマインドと一緒に持ちあわせておくべきです。
  • posted by Yosh at 08:00| Comment(14) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年10月30日

    臨床心理士資格・一次試験合格発表

     先週の終わりから今週の初めにかけて、先日行われた臨床心理士一次試験の結果が発表になっているようです。私は先日まで、ある志願者の方からの依頼を受け、この一次試験対策のための家庭教師をやっていました。

     心理学者、塾講師両方のキャリアを活かし、過去問を徹底分析し、ティーチングプランを立て、説明に心を砕き、時にはおまじないをかけ(これは比喩表現ですよ。念のため)、とにかく手塩にかけてやって来た訳です。したがって、彼女の受験というのは私の一世一代の勝負でもありました。

     その結果の連絡が今日ありました。見事一次試験をパスしたそうです。彼女に伝えた「おめでとう」は、自分への言葉でもありました。あーよかった。

     しかしまあ、これできっと心理学とは(専門家としては)すっぱり縁が切れるんだろうな。さすがにもうこんな依頼は来ないだろうし、他に接点もないから。寂しいような、せいせいするような。
    posted by Yosh at 22:52| Comment(2) | TrackBack(1) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年10月22日

    言い訳の心理(セルフハンディキャッピング)

     私事ですが、今日は久々に TOEIC の試験を受けてきました。出来はチト芳しくないです。

     それはさておき、今日は「セルフハンディキャッピング」という心理について説明しましょう。強い、弱いはありますが、人間誰しもにあり得る心理であり、恐らく皆さんにも多少なりと心当たりがあるんじゃないでしょうか。

     この「セルフハンディキャッピング」というのは端的に言うと、言い訳のことです。何か目的や目標があったとして、それを達成できれば良いのですが、必ずしも自信がない場合というのもあります。その時、やれるだけのことをやろうと前向きになるのか、なんやかんやと言い訳を作って失敗したときに備えるのかは……

    自由だー!

     コホン。済みません。気を取り直して説明し直します。要はこういうことです。人間は失敗した時、自分のプライドが傷ついたり自分の良いイメージを損なったりする恐れがあります。そうならないためにあらかじめ何か言い訳を作り出して、いわば心の保険をかけることを「セルフハンディキャッピング」と言います。

     ただしここで言う「言い訳」は、普通に他人にするだけではなく自分に対しての言い訳という意味も含みます。また、言い訳というと普通は言葉によるものを指しますが、このセルフハンディキャッピングというのは「言い訳にできそうな事柄や悪条件を作り出す」ことも含めます。

     たとえば試験前によく「全然勉強していない」なんて言う人がいませんでした? アレって他人に言うというより自分への言い訳・保険的な要素が大きいと思いません? こういうのが言葉による言い訳、セルフハンディキャッピングの中では自己報告ハンディキャップ (Self-reported Handicaps) と呼ばれる物です。

     あるいは、ホントはそこまで調子悪いというほどじゃなくても、「調子悪い、今日は勉強をせずに休もう」とかそんな風にして敢えて自分を悪条件に置いてみるだとか。これが行動セルフハンディキャッピング (Behavioral Self-handicapping) です。セルフハンディキャッピングにはこの2種類があるというわけです。

     では、「俺はわざわざ努力しないからそんなにモテないけど、ちゃんとしたらモテるんだぜ」というのはどうでしょうか? これは、そういう発言をすることが前者、実際に努力しないのが後者ということで、両方のセルフハンディキャッピングを使用していることになりますね。

     いかがですか? 恐らく皆さんの多くがドキリとしたんじゃないでしょうか。何かをしなければならない時、この「セルフハンディキャッピング」のことを少しだけ思い出してみると良いかもしれません。

     ところでまた私事ですが、最近仕事が忙しくて改訂された TOEIC 試験の対策が十分できてなかったんですよね。困ったことにリスニングでは従来のアメリカ英語ばかりではなくイギリス、カナダ、オーストラリアでの発音が均等に出てきますが、私はアメリカ英語しかわかんないですよ(それすら得意じゃないのに)。しかもきのうは会社の飲み会で夜中2時半までカラオケしていたし、結局帰って寝たのが4時。睡眠時間があんまり取れなかったんですよね。あと、TOEIC テストの実施要項にも問題があると思います。腰が悪い私としては2時間ずっと座りっぱなしというのはかなりの負担になります。それに(以下略)

    posted by Yosh at 22:31| Comment(4) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年10月07日

    [専門的]心理学ミニ1問1答(追加問題)・解説

     では、追加問題の解説です。リクエストされた emi さんに限った話ではありませんが、追加質問があればコメントどうぞ。(あるいは「おかしいじゃないか」というのでも構いません。即興で作った問題ですから、どこかにミスがないとも言い切れませんし。)

    【心理統計法】
    XXI. 次の統計用語に関して不適切な記述は?
    1) 相関係数を使用して相関の強さを検討する際には、無相関検定の結果も参考になる

     算出された相関係数に有意差があるかどうかを検定するのが無相関検定です。この検定はサンプル数が多くなると、相関が低くてもいとも簡単に有意差が出るという弱点があります。したがってこれが不適切な記述。

    2) 標準得点と偏差値は、本質的には同じ物である

     データの値を変換して「平均値0、標準偏差1」にしたのが標準得点。同じような手法で「平均値50、標準偏差10」にしたのが偏差値です。

     おまけの話ですが、大学の偏差値なんてものは存在しません。あれはどういうことかというとたとえば、「A大学は偏差値60=模擬試験で偏差値60の成績だと合格できる可能性が比較的高い(合格率60%が採用されることが多い)」というものです。BカップとかDカップとか言いますが、あれが女性の胸の大きさの指標ではなくブラジャーのカップのサイズであるというのと同じです。知性ある人間でありたいと思う人は「その大学の偏差値はいくら?」とか「胸は何カップ?」などという発言は避けるべきでしょう。なんというか、「インターネット、持ってる?」くらい恥ずかしい言葉です。

    3) 因子分析はしばしば質問紙作成に利用される

     利用されます。たとえば、性格を測定する質問紙では、多様な設問を分類して近しいものをひとつのグループにする(そして、それをひとつの特性と扱う)のに使います。

    4) 比率尺度は、心理学ではあまり使用されない

     データの中でいわゆる量的データと呼ばれるものについて復習しましょう。間隔尺度と比率尺度です。

     ゼロの位置を動かしても計算上問題ないような場合は間隔尺度ですね。たとえば質問紙の得点で「当てはまる」「どちらとも言えない」「当てはまらない」というのは、3・2・1点と当てはめても良いですし、1・0・−1点と当てはめても良い訳です。こういう場合はゼロをどこに設定しても良いですよね。

     比率尺度というのは、はっきりとしたゼロがある数値のことです。たとえば重さ(質量)や体積などです。重さの例で言うと 100g をゼロと定めるということはできませんよね。この手の指標が心理学ではいかにも使用されそうにないのはおわかりになるでしょうか? 強いて言うなら精神生理学の実験で生理指標を取るとき位じゃないでしょうか。心拍数はとりあえずはっきりとしたゼロがありますし。

    XXII. 次のうち正しい記述は?
    1) 順序尺度に用いられる相関係数は存在しない

     よく使われるピアソンの積率相関係数は量的データにしか適用できませんが、スピアマンの順位相関係数なら順序尺度に使えます。

    2) 分散分析は、下位検定の後に実施する

     逆です。まず分散分析を行います。有意差が見られた時に、では具体的にはどことどこの差が有意なのかを見るのが多重比較(下位検定)です。

    3) データのばらつきを見る指標として標準偏差が利用されるのは、計算の簡便さのためである

     データのばらつきを見る指標としては他に平均偏差というものがあります。これは考え方自体は簡単なのですが、式に絶対値が含まれています。統計ソフトや表計算ソフトがなかった時代では、絶対値を計算するより平方根(ルート)を計算する方が楽だったので、標準偏差の方が広く使われるようになりました。というわけで、これが正しい記述。

    4) t検定は、3つまでの平均値の差を検定できる

     t検定は2つの平均値の差を検定するものです。

    【精神分析学の理論】
    XXIII. フロイトの理論について不適切な記述は?
    1) 科学哲学による批判を受けた

     まずポパーによって「反証不可能な仮説を持つ理論は疑似科学である」という批判を受けました。そしてそこからいろいろな議論が起きました。

    2) フロイトの人格理論は治療理論から派生したものであり、彼の理論の中核ではない

     これはフロイト本人の言葉です。さらに「もし間違いが見られたら喜んでそれを訂正しよう」とも言っています。

    3) フロイトの提唱した概念は多数あるが、無意識もそのひとつである

     後の人が「フロイトが提唱した」と思っているものの中には、案外フロイト以前からあったものが多くあります。無意識という概念はギリシア哲学の時代からありました。また、自由連想法もフロイトの発明ではありません。したがってこれが不適切な記述です。

    4)人の心を意識、前意識、無意識に分類する

     これは正しい記述ですね。ちなみに私は未だに前意識という言葉の意味がつかめずにいます。

    XXIV. 次の人物−語の組み合わせのうち、最も関係が薄いものは?
    1) ラカン−機能主義

     ラカンは構造主義者です。したがって、この選択肢が正解。

     構造主義と機能主義という言葉は対として使われますね。実験心理学の世界で言うと、ヴントら初期の実験心理学は構造主義的なアプローチ、行動主義の手法は機能主義的なアプローチと言えます。

    2) アドラー−自尊感情

     劣等感だとか権力の追求だとか、そういう自尊感情にまつわる言葉がアドラーの理論のキーワードになってきます。

    3) クライン−対象関係論

     メラニー・クラインといえば対象関係論。過去問頻出です。

    4) ユング−アーキタイプ

     アーキタイプは日本語で言うと元型です。元型もユングのキーワードのひとつですよね。

    【心理検査の基礎】
    XXV. 次のうち存在しない用語は?

     心理検査でよく言われる「妥当性」という言葉の問題です。何かを測定するとき――心理学では、特に心理検査で性格を測定するときが典型的ですが――にちゃんと正しいものを測っているかどうかというのが妥当性です。ちゃんと測れていればいるほど「妥当性が高い」と言います。この妥当性という言葉ですが、細かく考えるといろんな要素に分かれます。

    1) 成分内妥当性

     これが存在しない用語です。適当な言葉をでっち上げるのに苦労しました。

    2) 基準関連妥当性

     「何らかの外的基準と関連か深いかどうか」という観点で見る妥当性のことです。たとえば、良い入社試験というのは、入社後の業績と上手くリンクしている物です。このように「入社後の業績」という外的基準との相関が高いテストは「基準関連妥当性が高い」と言えます。

    3) 弁別的妥当性

     理論上は関係ないものと比べて、ちゃんと関係ないかどうかを確かめる形で検討する妥当性です。たとえばうつを測定する検査を健常者に実施して、ちゃんと得点が低ければ「弁別的妥当性が高い」と言えます。

    4) 構成概念的妥当性

     妥当性の究極の形ですね。測りたい物(構成概念)をちゃんと測定できているかどうかという意味です。極論を言ってしまうと、構成概念的妥当性を完璧にすることはできないということはおわかりでしょうか? だって、それをちゃんと測っているかどうかを完璧に確かめる方法はない訳ですから(仮にあったとしてもその元の方を使えばいいですから、新しく何かを作る必要はなくなってしまいます)。

     ですが、実は妥当性というのは「ある・ない」のどちらかではなく、「高い・低い」で表されるものです。つまり、十分に高い妥当性があれば、完璧でなくても許されるのです。理解を深めるという点で、これも知っておいて損はないでしょう。

     なお、妥当性にまつわる各概念の説明、特に例示に関しては村山航さんのサイト内の「妥当性について」を大いに参考にさせていただきました。
    posted by Yosh at 22:47| Comment(13) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年10月06日

    [専門的]心理学ミニ1問1答(追加問題)

     おかげさまで好評のようですので、追加問題を5問ほど作成しました。これで計25問になりますので、1問4点で計算し直すことも可能です。ただ、今回は少し問題が難しいかも??

    【心理統計法】
    XXI. 次の統計用語に関して不適切な記述は?
    1) 相関係数を使用して相関の強さを検討する際には、無相関検定の結果も参考になる
    2) 標準得点と偏差値は、本質的には同じ物である
    3) 因子分析はしばしば質問紙作成に利用される
    4) 比率尺度は、心理学ではあまり使用されない

    XXII. 次のうち正しい記述は?
    1) 順序尺度に用いられる相関係数は存在しない
    2) 分散分析は、下位検定の後に実施する
    3) データのばらつきを見る指標として標準偏差が利用されるのは、計算の簡便さのためである
    4) t検定は、3つまでの平均値の差を検定できる

    【精神分析学の理論】
    XXIII. フロイトの理論について不適切な記述は?
    1) 科学哲学による批判を受けた
    2) フロイトの人格理論は治療理論から派生したものであり、彼の理論の中核ではない
    3) フロイトの提唱した概念は多数あるが、無意識もそのひとつである
    4)人の心を意識、前意識、無意識に分類する

    ※2006年10月7日追記:「全意識」としていましたが、誤字です。正しくは「前意識」ですので訂正しました。

    XXIV. 次の人物−語の組み合わせのうち、最も関係が薄いものは?
    1) ラカン−機能主義
    2) アドラー−自尊感情
    3) クライン−対象関係論
    4) ユング−アーキタイプ

    【心理検査の基礎】
    XXV. 次のうち存在しない用語は?
    1) 成分内妥当性
    2) 基準関連妥当性
    3) 弁別的妥当性
    4) 構成概念的妥当性

    解答はこちら
    posted by Yosh at 21:06| Comment(4) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年10月05日

    [専門的]心理学ミニ1問1答・問題 5問 解説

     emi さんからご質問があった5問について解説します。

    V. 「傍観者効果」の要因とされていないものは?
    1) 群衆力動
    2) 多元的無知
    3) 評価懸念
    4) 責任分散

    解:1)

     傍観者効果には3つの要因があるとされ、具体的には2)〜4) となります。ある種の同調行動ですから集団力学的な作用があることは間違いないのですが、それを細分化したのがこれらです。

     さて、問題の選択肢1) ですが、実は群衆力動という言葉はありそうで存在しないニセ専門用語です(私が作ったデマカセの用語です)。ただし「集団力学」「集団力動」といった言葉なら存在します。

     心理学の世界では紛らわしい術語(それこそ問題 XVI の例のように)も多くあります。また、過去問では別の分野から引っ張ってきた関係のない術語や、出自不明(デマカセ?)の用語も多々見られます。本問は、その類のひっかけ問題です。


    X. PFスタディにおける「外責型」「内責型」「無責型」という分類に最も相通ずる点のある理論は?
    1) ローカス・オブ・コントロール
    2) ユングの人格理論
    3) アイゼンクの特性論
    4) ミシェルのパーソナリティ係数

    解:1)

     リクエストのあった1) と4) について解説します。

     1) のローカス・オブ・コントロールとは、簡単に言うと「何か出来事があったときに、その原因を自分と思うか自分以外だと思うか」ということです。この原因をどこに求めるのかという心の動きには個性があり、自分だと思う場合の多い人は「インターナル(内面的)」、自分以外だと思う場合の多い人は「エクスターナル(外面的)」と分類するわけです。

     これらの用語は困ったことに英語だとユングやアイゼンクが使う「内向」「外向」とかぶっちゃうので、論文を読むときには要注意なのですが、それは別の話。

     理論的バックボーンは(私の知る限りでは)ずいぶん違いますが、「インターナル・ローカス・オブ・コントロール」は PF スタディにおける「内責型」に、「エクスターナル・ローカス・オブ・コントロール」は「外責型」に似ている面があります。よって、1) が正解となります。

     4) のパーソナリティ係数というのは、社会心理学者ミシェルが皮肉を込めて提唱した言葉です。彼曰く、「人間には個性があるというが、人間の行動を決定するのは状況要因が大きい。個性の要因というのは驚くほど少ないのだ。」と主張し、それを実験的に確かめました。その結果、行動と性格特性との相関は約0.3ほどしかなく、これを彼は「パーソナリティ係数」と呼んだのです。これにより「人間−状況論争」と呼ばれる、要は個性はあるかないかという大論争が巻き起こりました。この人間−状況論争を「心理学の歴史そのもの」と呼ぶ人も多くいます。


    XIII. ストーカー規制法における「ストーカー行為」について不適切な記述は?
    1) 恋愛感情や好意に関わる場合のみに認定される
    2) いたずら電話も場合によっては認定される
    3) 直接の対象でなく、家族に対する被害も認定される
    4) 1回のつきまといやいたずらがあれば認定される

    解:4)

     被害者を尾行したり、いたずら電話などの嫌がらせ行為があった場合、この法律ではそれを「つきまとい等」と呼びます。そして、それを2回以上行った場合、「ストーカー行為」と認定すると決められています。

     なお、心理学的に重要なのは、単なる法律の中身よりもその理論的背景だと私は思います。というのも、単なる「つきまとい等」は社会経験が未熟な子ども等にも見られ、その場合の被害はたいていの場合、心配するほどのことでもありません。また、単に一言注意するだけで「つきまとい等」はなくなるケースがほとんどです。それに対して「ストーカー行為」は、2回以上という回数の問題だけでなく悪質なケースである可能性が高く、また加害者には人格障害や恋愛妄想を症状に持つ精神病などの可能性も疑われます。これが、そういう内容になっている理由です。


    XIV. 障害者自立支援法について不適切な記述は?
    1) 身体・知能・精神の各障害の区分を撤廃した
    2) 平成18年4月1日と10月1日に段階的に交付された
    3) 実質的な負担増であるという批判がある
    4) 施行時点でレセプトの形式が決まっていない

    解:2)

     今年施行、公布されて、受験生間で「出題されるのではないか」と噂されている障害者自立支援法についてです。が、実はこの問題は法律の内容を問うものではありません。臨床心理士試験にありがちな意地悪ひっかけ問題です。

     ……と、その前に。済みません。問題にミスがありました。交付は誤字で、正しくは公布です。結果として正解は変わりませんけど。(元記事にあった誤字は修正済み。)

     では、正しい字だったとして解説しましょう。法律の世界で「公布」というと、「発表」みたいな意味です。そして、実際にその法律を有効にすることを「施行」と言います。この法律もそうですが、法律を発表、つまり「公布」するという行為は普通は当然ながら一度にやります。何度かに小分けにしてやることはまずありません。具体的には、この法律は平成18年4月1日に公布されました。ただし実施、つまり「施行」されたのは平成18年4月1日と10月1日の2段階です。したがって公布が間違いで、正しくは施行となります。

     まあ誤字のままだったとしても、「法律を交付する」というのは日本語としておかしいので不適切ということでご勘弁を。


    番外編:ジンクピリチオン効果

     済みません。ちょっとおふざけが過ぎましたね。これは心理学用語じゃないです。本来、こんなところに名前が出てくるようなものでもありません。

     ジンクピリチオンは花王のシャンプー「メリット」に配合されている成分で、頭皮のフケ、かゆみを抑えてくれる効果があるのだそうです。その内実は殺菌剤なのだとか。昔、テレビ CM で「ジンクピリチオン効果」と謳って宣伝していました。

     なお、作家の清水義範が『インパクトの瞬間』という短編小説で、「何だか訳はわからないが、まあ大きい会社の宣伝だから効果があるんだろう」という心理を皮肉って「ジンクピリチオン効果」と呼んでいました。ですから、ある意味で心理学用語かも知れません(んな訳ない)。
    posted by Yosh at 23:41| Comment(4) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年10月03日

    [専門的]心理学ミニ1問1答・問題 III 解説

     心理学ミニ1問1答の問題 III について華やぐさんからご質問がありましたので、解説したいと思います。

     さて、自分で作っておいてこういうことを言うのもアレなんですけども、これはあまり良い問題ではありません。臨床心理士の試験は、公開されている問題を見る限りだと(初期よりは減ったとはいえ)まだまだ悪問が散見されます。本問はそれを意識して作った意図的な悪問のひとつです。

     典拠とした本は特になく、紹介はできないのですが、まずはまともに考えた場合の解説をしておきます。まずゲシュタルト心理学のスタートはほぼはっきりしており、1912年のヴェルトハイマーによる運動視の研究に端を発しています。一方、行動主義は J. B. ワトソンの1919年の著書(書名ど忘れ、調べておきます)で行動主義という言葉を(公的には恐らく初めて)使っています。したがってまず成立時期はわずかにゲシュタルト心理学が早いということになります。微妙ですが、この手の微妙な問題が実際の試験でもよく出ています。よって両者の順番は ゲシュタルト心理学→行動主義心理学 となります。

     さて、この手の問題に対して、上記のような“正しい”解き方よりももっと有効な解法も示します。ここで紹介するような方法は、過去問を分析した結果、臨床心理士試験では特に有効な考え方であると私は思っています。

     まず、択一式の問題ですから必ず答えがあることが前提です。実は過去問の中にはミスの含まれた出題がされていて、その結果厳密には解答が「なし」というものすらいくつかあります(例:17-26)。そこまで極端ではなくても、判断が難しい微妙な問題も散見されます。今回もそういう微妙な問題ですが、そのようなときでも、次善の回答をすることで正解と扱われます。下記のような感じです。

     ここでは、言葉の意味をやや幅広く取ってみましょう。行動主義というと時に新行動主義を含む場合があります。そして、成立時期だけではなく最盛期も比べてみると良いでしょう。そうすれば、行動主義がゲシュタルト心理学よりもやや後の方にずれ込む形になります。このようにして、正解を無理矢理ひねり出すという形を取るのです。

     世の中の多くの問題と同様、試験問題も○と×では表現できないケースがたくさんあり、その場合は△を考える必要があるという訳です。そして、その△は○に近いものか×に近いものかだとか、あるいは△を○とすることで整合性が合うのかそれとも矛盾するのかといったことを考えながら問題を解けば、この手の微妙な問題の正答率がかなり上がることでしょう。

     この考え方は、もしかしたら受験生の皆さんはあまり好きではないかも知れません。が、得点を上げるという視点からは非常に有効です。今日から当日まではそういう思考法で行ってみてはいかがですか?
    posted by Yosh at 11:06| Comment(7) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年10月02日

    [専門的]心理学ミニ1問1答(その2)

     注意事項等はその1と全く同じです。あと、今回で完結編です。合計20問ですから、1問5点の100点満点で計算すると目安になるでしょう。

    ◆心理学ミニ1問1答(その2)◆
    【精神医学】
    XI. 統合失調症の原因について不適切な記述は?
    1) 内因性である
    2) 遺伝負因がある
    3) 原因は不明だが、究明されつつある
    4) 心因性でもある

    XII. いわゆる「引きこもり」と呼ばれる現象と関係がもっとも薄いと思われる精神障害は?
    1) 統合失調症
    2) 解離性同一性障害
    3) 気分障害
    4) 回避性人格障害

    【法律・倫理】
    XIII. ストーカー規制法における「ストーカー行為」について不適切な記述は?
    1) 恋愛感情や好意に関わる場合のみに認定される
    2) いたずら電話も場合によっては認定される
    3) 直接の対象でなく、家族に対する被害も認定される
    4) 1回のつきまといやいたずらがあれば認定される

    XIV. 障害者自立支援法について不適切な記述は?
    1) 身体・知能・精神の各障害の区分を撤廃した
    2) 平成18年4月1日と10月1日に段階的に公布された
    3) 実質的な負担増であるという批判がある
    4) 施行時点でレセプトの形式が決まっていない

    ※2006年10月5日追記:2) の選択肢内にあった「交付」の誤字を「公布」に修正

    【モティベーションと情動】
    XV. 高い覚醒状態時について不適切な記述は?
    1) 動物は覚醒水準が高いと「闘争か回避か(Fight or avoidance)」と呼ばれる状態になる
    2) ストレス状態に晒されると、その段階によってカテコールアミンや副腎皮質ホルモンなどが分泌される
    3) アドレナリンという呼称は国際的には使用されない
    4) 精神性発汗は手のひらや足の裏などに発生する

    XVI. 防衛機制における「代償」と同義の用語は?
    1) 置き換え
    2) 補償
    3) 転換
    4) 反動形成

    【教育心理学】
    XVII. 教師が「この子は優秀だ」と認知すると、実際に成績が伸びるという現象は?
    1) プラシーボ効果
    2) ジンクピリチオン効果
    3) ピグマリオン効果
    4) ハロー効果

    【知覚心理学】
    XVIII. 心的回転について正しい記述は?
    1) 直角に回転することは容易である
    2) 立体的な回転はできない
    3) 正反対に回転したときが最も認識速度が速い
    4) 回転角が小さいほど認識速度が速い

    【発達心理学】
    XIX. ピアジェの理論や研究法と無関係なものは?
    1) 自己中心的思考
    2) 発達課題
    3) 具体的操作期
    4) シェマの獲得

    XX. 知的能力のうち、語彙力は何歳頃がピーク?
    1) 18歳
    2) 35歳
    3) 50歳
    4) 65歳

    解答はこちら
    posted by Yosh at 16:54| Comment(8) | TrackBack(1) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    [専門的]心理学ミニ1問1答(その1)

     臨床心理士の資格試験が近づいてきました。家庭教師で見ている生徒さんのためにざっと練習問題を作ってみました。で、せっかく作ったのに1人だけじゃもったいないので、今日はそれのお裾分けです。趣旨としては、臨床心理士試験を受験したい人が気軽に実力を試すのに使う物ですので、心理学を勉強していない方には意味のない記事になります。ご了承ください。

    【注意・免責事項】
  • できる限り誠実に作成したつもりですが、私の無知や知識の古さ、あるいは単純なミス等が含まれている可能性があります。正解の精度を100%保証はしません。
  • ご質問やご意見は承ります。宛先はメイルでもいけなくはありませんが、できるだけこの記事のコメント欄に記載してください。

    ◆心理学ミニ1問1答(その1)◆

    【生理心理学と精神生理学】
    I. 「半交叉」とは?
    1) 右眼の網膜像が右脳で処理されること
    2) 右眼の網膜像が左脳で処理されること
    3) 右視野の網膜像が右脳で処理されること
    4) 右視野の網膜像が左脳で処理されること

    II. 「皮膚電気反応」を略して?
    1) EEG
    2) GSR
    3) SCT
    4) JAS

    【心理学史】
    III. 次の学派・立場を時代の古い順に並べたら?
    1) 認知心理学
    2) 精神物理学
    3) ゲシュタルト心理学
    4) 行動主義心理学

    IV. 次の人物と専門分野との組み合わせで正しいものは?
    1) パブロフ−学習心理学
    2) フロイト−個人心理学
    3) アイゼンク−認知心理学
    4) チョムスキー−言語学

    【社会心理学】
    V. 「傍観者効果」の要因とされていないものは?
    1) 群衆力動
    2) 多元的無知
    3) 評価懸念
    4) 責任分散

    VI. モデリング学習の説明として不適切なのは?
    1) 女性には当てはまらない
    2) 報酬を与えると強化の度合いが強まる
    3) 被験者が幼いほど効果が大きい傾向がある
    4) 報酬がなくても強化がされる

    【学習心理学】
    VII. 次の生物の行動をa) 走性、b) 馴化、c) 古典的条件付け、d) 道具的条件付け、に分類すると?
    1) 金魚に対し電灯が一瞬光る3秒後に電撃が発生するよう仕掛け、輪くぐりによって回避できるようにした。金魚は光を見たら輪をくぐるようになった
    2) 虫が街灯に引き寄せられる
    3) ピザを見ただけでは唾液が出なかったが、食べるたびにタバスコを大量にかけていたら、ピザを見ただけで唾液が大量に出るようになった
    4) 麻薬で得られていた刺激が段々弱くなり、次第に摂取量が増える

    VIII. 「低次の説明が可能な場合は高次な説明をすべきではない」という法則を何と言う?
    1) ハーロウの法則
    2) ヤーキース=ドットソンの法則
    3) モーガンの公準
    4) ジェームス=ランゲ説

    【人格心理学と心理検査】
    IX. 「パーソナリティとは個人を特徴づけている行動と思考を決定する精神・身体的システムで、その個人の内部に存在する力動的な組織である」と定義したのは?
    1) キャッテル
    2) アイゼンク
    3) オールポート
    4) アンナ・フロイト

    X. PFスタディにおける「外責型」「内責型」「無責型」という分類に最も相通ずる点のある理論は?
    1) ローカス・オブ・コントロール
    2) ユングの人格理論
    3) アイゼンクの特性論
    4) ミシェルのパーソナリティ係数

    (その2)もあります。

    解答はこちら
  • posted by Yosh at 16:31| Comment(8) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年04月30日

    倫理規定くらいあるわい! 心理実験

     心理学の研究のもっとも中心的な手法は「実験」です。イメージ的には「アンケート調査」「観察」「症例研究」といったものの方がメインに思えるかも知れませんが、実は違います。で、心理学の実験というと世の人の中には結構すごいイメージをお持ちの方もいらっしゃいます。たとえば「真っ赤な部屋にずっと閉じこめられる」とか。今回はそれについての誤解を解きたいと思います。

     まず、研究というのはどういう形で発表されるかと言いますと、大学院生や教員などの研究者の場合は学術雑誌への論文投稿です。それから大学生の場合はもちろん卒業論文、あるいは手習い的な実験ならレポートという形です。つまり、いずれも文章の形にして出すわけですが、そうすると当然それを審査する人というのがいるわけです。で、それこそ単位を取るためのレポートから専門性の高い論文まで、必ず合否というものがあります。つまり、ダメなものは書いても意味がないということですね。

     そして、採否の基準は何も論文としての出来の良さばかりではありません。いくら画期的な論文であっても、人の道に外れたようなものは決して採用されたりはしません。仮にそういうヒドいものを採用していたとすれば、その学会なり大学なりは、何らかの形で(たとえば被害者が裁判を起こす、人権団体からの抗議など)強く糾弾され、研究を持続することができなくなるでしょう。したがって、心理学の実験というのは基本的に安全なものです。もし大学等からの実験参加の要請があったら、時間等が許せばぜひ快く参加してあげてくださいね。

     ただし、世の中には心理学を騙った反社会的団体も存在する可能性があります。あるいは、悪意はさほどなくても認識が甘い個人や団体などもあるかも知れません。そういう、参加が安全か危険かの簡単な見極め方も書いておきます。

    1. 事前の説明がしっかりしているか
     まず、何の説明もなく実験参加要請だけ行うような実験者は認識不足もしくは悪意があります。「簡単なアンケートに答えて」だけの説明などもダメです。実験心理学の場合、データは複数人の生データを統計処理して、匿名として(というかそもそも個人の生データを単独で載せることなどあり得ない)掲載します。が、その説明がないというのはいけませんね。あと、どのくらいの時間がかかるのか、などの説明もほしいところです。深いプライバシーに関わるようなことを聞かれる可能性はあまりないと思いますが、もし聞かれたらその真意(どのようにデータを使うのか)があらかじめ説明されているかどうかもチェックしておきたいところです。

    2. 実験に不快感や不安がある場合、途中であっても実験を降りることができるかどうか
     これに No が出るような実験はプラン自体がダメです。

    3. 実験同意書の準備があるかどうか
     実験に同意するかどうかはあなたが決めることです。それを口約束にしないようにしましょう。これは実験者側が用意するのが筋ですので、その準備をしていないような人は研究者として認識不足に思います。

    4. 事前の質問に答えてくれるかどうか
     まあ相手の不備というのも多少あるかも知れません。上記の条件が満たされていない場合は、聞き直してみましょう。聞く内容は上の項目が参考になると思います。

    posted by Yosh at 14:28| Comment(2) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年04月28日

    「プラシーボ効果」という言葉の誤解

     「プラシーボ効果」という言葉をご存じの方も多いと思います。今日は、この言葉が非常に誤解の多い言葉であることを説明したいと思います。

     プラシーボ効果の「プラシーボ」というのは、元々はカトリック教会の言葉で「死者のために唱える聖務の晩課」という意味なのだそうです。これは元々の読みはプラセボで、英語読みするとプラチェイボになるようです。そのプラセボが、どういう訳か科学の専門用語として転用され、読みもプラシーボに変わってしまいました。日本語では「偽薬効果」とも訳されます。

     では、どういう意味なのか。手元の英和辞典の訳がよくまとまっているのでそのまま引用させてもらうことにします。
    「プラシーボ効果 《偽薬の投与による心理効果などで実際に患者の容態がよくなること》.」
    (『リーダーズ英和辞典』より)
     一般に専門用語に関しては、必ずしも辞書が意味を正確に捉えているとは限りません。しかし、今回は珍しく(と言っては失礼かな)非常に適切にまとめられています。

     たとえば生理食塩水などの薬効がないことが知られているものを、薬と称して患者に投与するとします。形式は錠剤でも注射でもなんでも構いません。それで病気が改善されたら、それはプラシーボ効果があったと言えます。人間の思いこみの力というのは意外とあるものでして、そういうことは実際にあり得ます。そういう意味では、「病は気から」ということわざは割と科学的です。

     さて、この言葉を知っている人は多くの場合、これを拡大解釈して誤解しています。世間でよく使われる間違った意味は、こんな感じです。
    「○○してみたら、××になった気がするよ。」→「それはプラシーボ効果だ」
     たとえばこんな感じです。
  • 「高い食器でお茶を飲んだら美味しいね。」
  • 「パソコンのマウスを買い換えたら、何かパソコンが軽快に動くようになった気がする。」
  • 「この錠剤を飲み続けたら、何か体が軽くなった気がする。」

     以上の例は言っていることが本当かどうかわかりません。1つ目は明らかに気分の問題で、お茶の成分が大きく変わったとはちょっと考えがたいので、気のせいと言って良いでしょう(気のせいだから悪いというわけではありません)。2つ目は単にマウスカーソルの動きが良くなっただけなのを、パソコンそのものが軽快に動くようになったと思いこんだのだとしたら、それは勘違いでしょう。この、1番目、2番目の例のように気のせいや勘違いが起きているときに、それを指摘するために「プラシーボ効果」という言葉を間違って使うケースを非常に多く見ます。これらは単なる「暗示」で、「プラシーボ効果」ではありません。

     では、暗示とプラシーボ効果とはどう違うのでしょうか? それは、3つ目の例をよく見ていくことで説明していきましょう。3つ目の例は薬の話。ここでポイントなのは、発言者の気持ちが「単なる気のせい」なのか「実際に薬効があった」のかということです。もう一度「プラシーボ効果」の説明を読んでみてください。「偽薬の投与による心理効果などで実際に患者の容態がよくなること」とあります。たとえば高血圧の人の場合、実際に血圧が落ちているかどうかが問題なのです。血圧が落ちてもいないのに気分だけ良くなっても、それは単なる気のせいであってプラシーボ効果ではないのです。
  • posted by Yosh at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年04月24日

    ムカつく時!

     皆さんは最近、腹の立ったことはありますか? 最近でなく昔でも構いませんが、何かに対して怒りを感じた記憶があるでしょうか? それを、軽くで良いのでいくつか思い出してみてください。

     人間はどんなときに頭に来るのでしょうか? そんなもん人によるに決まってます。しかし、その人による“怒りのツボ”に何らかの共通点が見いだせるとしたらいかがでしょうか? そんな無茶に近い問いに対して、大昔から心理学はいろいろなアプローチを試みてきました。そしていろいろな学説が現れました。中には否定されたものもあり、あるいは一定の説得力はあるけど不十分なもの、まだ十分に検討されていないものなども多くあります。そんないろんな学説の中で、まだ決定版とまでは言えないけれども、私が強い説得力を感じているものを簡単に紹介しましょう。

     その学説は端的に言うとこんな感じです。
     人は誰しも“俺ルール”を持っている。その俺ルールを踏みにじられたら腹が立つのだ。
     さて、冒頭でお願いしたことをもとに考えてみてください。「自分がどんなときに腹が立ったのかを思い出してみてください」という奴ですね。どうですか? 当てはまってますか?

     ちなみにこの“俺ルール”というのは、ほとんど無意識に持っているものの場合もあれば、強い信念のようなものもあります。政治的信念や一般常識、あるいは単なる好みもやはり俺ルールです。譲れない一線と言い換えても良いかもしれません。以下は、私が適当に考えた(架空の)俺ルールの例です。
  • 人前に出るときは、口臭くらい気を遣う。
  • 人殺しなんて絶対許せない。戦争を起こすことは国家レベルの犯罪。
  • 女性は痴漢に遭わないように細心の注意を払うのが当然。
  • 買い物は安いものを厳選すること。
  • カラオケの曲予約は順番を守る。
  • 電車の中で携帯電話の電源を切る。
  • サラダは塩で食べる
     ……と、こんな感じ。たとえば最後の俺ルールを持っている男性が、つきあい始めの彼女と食事をしたとしましょう。その彼女の持つ俺ルールが「サラダというのはドレッシングで食べるものだ」だとしたらどうでしょうか? 彼女が当然のようにサラダにドレッシングをかけ始め、それが元にケンカになるかも知れませんよね。些細なケンカというのは、こんな風に始まる訳です。

     数ヶ月前ですが、ヨーロッパのどこかの国の新聞にイスラム教を侮辱するような風刺漫画が掲載されたことで、イスラム教国の人々が大きな反発をしたという事件がありましたよね。お互いの言っていることがあまりにかみ合っていないのが印象的でしたが、それもこの「俺ルールの違い」というのを元に考えると理解しやすいんじゃないかと思います。

     このことをよく知っていると、無駄に怒っちゃうことが格段に減ります。ある意味で究極の生活の知恵かも。めちゃお役立ちですよ。もちろん時にはどうしても怒らなければならないときもあるでしょうが、変なことで変に腹が立つ機会が減るだけでもかなり心身共に健康的かと思います。
  • posted by Yosh at 22:04| Comment(4) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年04月19日

    予知夢の科学

     「予知夢」と呼ばれる現象があります。これは、夢で見たことを現実にも体験するというものです。オカルトっぽい話ですが、同時にロマンティックな話でもあり、不思議な現象として取りだたされます。では、なぜこんな現象が起こるのでしょうか?

     実は予知夢は、ごく簡単に科学的な解釈が可能です。考えられる原因は非常に数多くあります。まず、もっとも単純なのが報告者の嘘や思いこみに類するものです。次に、夢の性質を考えたら予知夢のような現象が起きうるのは当たり前という理由もあります。「嘘」については説明は不要でしょう。ですから、残りの2つの理由について簡単に説明したいと思います。

     「思いこみ」というのは、夢で見た「つもりになる」ということです。人間の記憶は大変当てになりません。時間が経つごとに、どんどん薄れていくだけでなく、変形もします。記憶が変質するのは、人間は物事をそのまま写真のように認識するのではなく、大ざっぱに認識するのが得意だからです(記憶の話とは少しずれますが、この大ざっぱな人間の性質は以前書いた「基本的帰属錯誤」「カクテルパーティ効果」が良い例でしょう)。ましてや夢のこととなると、目覚めた瞬間にもう忘れてしまっていることもよくあります。そんな風に当てにならない記憶、これが、予知夢の原因のひとつとして挙げられるでしょう。この点をもう少しつっこんで説明するため、「既視感」という概念を説明しましょう。

     既視感、いわゆるデジャ・ヴュという言葉を聞かれたことがあると思います。初めて見るはずの光景なのに、以前見たことがあるような気がするという現象ですね。この現象、すでに科学的に説明がなされています。それによると、既視感は以前見た別の光景に部分的に重なるところがあり、それが記憶のあいまいさと重なって「見たことがある」と錯覚する現象であることが知られています。あるいは「以前」というのが実は数秒前の話(つまり本当に単に初めて見た光景)で、それなのに昔見たかのように錯覚しただけという説もあります。ですから予知夢というのは、「あ。これ前に見た!」の代わりに「あ。これ夢で見た!」という既視感の変形である可能性があります。

     予知夢が発生するもうひとつの理由は、夢の性質によるものです。脳科学の発達により、夢はかつて精神分析学者たちが主張していたような無意識の投影ではなく(つまり夢分析は非科学的なものです)、脳に蓄えられた知識や記憶などをまとめて入れ込んだ闇鍋のようなものであることが知られています。別の例えをすると未編集の映画のフィルムを適当につなぎ合わせたものとも言えるでしょう。また、人はたいていの場合毎日眠り、そして覚えているかいないかにかかわらず眠っているときには必ず夢を見ます(夢を見ないという人もいますが、それは単に覚えていないだけです)。さらに、かつては夢を見ている時間と見ていない時間があるとされていましたが、これも研究によれば「実際には絶えず夢を見続けているのではないか」という説も出てきています。

     さて、今世界の人口は65億人を超えています。亡くなられた人を含むと何人になるかわかりません。そんなたくさんの人が、毎日寝る度に夢を見ます。単位は億なのか兆なのか、それ以上なのかもわかりませんが、それだけたくさんの時間、人は夢を見ているのです。その中で偶然現実とクロスオーバーすることがあるのってちっともおかしなことではないですよね。むしろ現実に全くかすりさえしない方が気持ち悪いくらいで。

     ましてや人間はかなり大ざっぱなので、ちょっとかすっただけでも「予知夢だ」と感じる人も多くいることでしょう。たとえば、
  • 災害後にたくましく暮らしていく夢を見たら、現実で震度4の地震が起きた
  • 好きな歌手のライブに行く夢を見たら、現実でその歌手の新しい CD が発売されることが発表された
  • ペットが逃げていく夢を見たら、2週間後にそのペットが死んでしまった
    などなど。ここまで範囲を広げると、ヒット率はかなり高くなることでしょう。

     予知夢はこれらの原因で十分に説明可能です。無理矢理オカルト現象にこじつける必要はないと言って良いでしょう。
  • posted by Yosh at 09:46| Comment(1) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年04月18日

    JR 福知山線脱線事故と PTSD 対策

     早いもので JR 福知山線の脱線事故からもう1年が立つようです。ウェブのニュースで気になる記事があったので、簡単に引用したいと思います。その記事は「訪問ケア、受け入れゼロ=「話す気にならない」−遺族の心に傷・JR脱線事故」というタイトルです。(ウェブ記事はすぐに消えてしまうのでリンクは貼りません。)
     (前略)JR福知山線脱線事故で、兵庫県が心のケアを目的に始めようとした専門スタッフの戸別訪問について、遺族側が働き掛けに積極的になれず、まだ1件も実現していないことが18日、分かった。「話す気にならない」というのが主な理由。(後略)
    (時事通信) - 4月18日6時3分更新

     大きなストレスのかかる事件(この事故のような社会的に大きなものに限らず、個人的なことであっても)を体験したとき、人は PTSD と呼ばれる状態になることがあります。PTSD とはポスト・トラウマティック・ストレス・ディスオーダー(心的外傷後ストレス障害)の略です。この言葉自体は病名と言うよりも、心身に何らかの症状が出たときの理由を説明するための用語ですね。実際、PTSD と思われる人たちに現れる症状は簡単には説明しきれないくらい多様です。それでも少しだけ挙げておくと、「パニック障害」「鬱」「睡眠障害」などです。

     それにしても大変悲しい話です。なぜなら、結果として被害者の方々が非常に有効な治療となるやり方に後ろ向きだからです。嫌なことがあったら触れたくないというのは、ごく自然な感情であり非常に理解しやすいものです。しかし残念ながら、忘れてしまおうとするだとか、考えないようにするのは良い結果を生みません。実は、一時的には苦痛であっても、話をしたり、感情をあらわにしたほうが長い目で見ると PTSD 対策として有効なのです。

     今回は長くなるので、なぜそうなのかという理屈の部分は説明しません(もし知りたければコメントでリクエストしてください。)。しかし、本当に辛いことがあったとき、我慢しても何の得にもならないことは知っておいて損はないと思います。その知識はあなた自身のためになるかも知れませんし、あなたの大切な人のためになるかも知れません。
    posted by Yosh at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年03月28日

    「ゲーム脳」は嘘です

     最近あまりに WBC に注力しすぎてしまい、ブログに書くネタが野球の話題しか思いつかなくなっていました。我々の仲間内では、普通に話をしてるときにハマっているゲームの話題にすぐ結びつけたり、一心不乱に特定のゲームをしたりする様を揶揄して、あるいは自虐的な表現として「ゲーム脳」なんて言いますが、さしずめここ1ヶ月くらいの私は「野球脳」です。

     さて、そんなことを考えているうちにブログネタを思いつきました。この話の発端となった「ゲーム脳」という言葉についてです。この言葉、よく聞かれるのでご存じの方も多いと思います。もちろんこれは我々の仲間内で使っているような意味ではなく、「ゲームばかりしていると脳が発達せずにバカになる」というような文脈で使われます。脳科学の分野での研究から出された提言なのだそうです。今日はこれについて。

     さて、結論から言いましょう。この「ゲーム脳」という概念は嘘です。インチキです。脳科学と聞くといかにも難しそうですし、客観的に証明されたかのような印象を受けます。しかしその内実はボロボロでして、非常に多くの(もっともな)批判が寄せられています。

     「ゲーム脳」理論の主張というのは大ざっぱにこんな感じです。「ゲームばかりやっていると、脳波がアルファ波成分ばかりになる。これは痴呆の人と同じ脳波パターンだ。そういう人は成績が良くなく、集中力に欠け、キレやすい。」

     では実際はどうなのでしょうか。この手の研究をするためには、現在においては心理学的な知見を利用せざるを得ないと思います。が、この研究にはそれをした形跡が一切見られないのです。要は、素人が素人理論を振りかざしていると言えます。実は、脳波を測って性格と結びつけるというのは心理学的に考えられません。特定の感情との結びつきが緩やかに認められますが、それでも1対1で「○○波が出たら××の感情を抱いている」などとはとても言えません。“感情”という一時的に発生するものですらその程度ですので、そこから人間の行動を決定づける大きな要因である“性格”を測定するなんてあり得ません。ところがこの研究では、脳波と性格とを強引に結びつけている節が見られます。また、仮にそれが事実だとしても、ある程度の例外は絶対に見られるはずです。そういったデータの記載は見あたりません。データの記載が見あたらないというのは、科学研究において証拠をまったく提示していないのと同じです。他にもいろいろ粗は見あたるのですが、ともあれこれらから「ゲーム脳」理論はひどいこじつけであると結論づけることができます。

     余談ですが、この手の“研究”の問題点というのは、恐らく最初に結論ありきで論を展開することにあるのではないかなと思うことが多いです。この研究者は恐らく、まず「ゲームは害があるに決まっている」と思いこむところからスタートしているんじゃないかと思います。それで、論に都合の良いデータだけに目が向いて、都合の悪い部分は「些細なこと」と無意識に決めつけて、無視してしまうという訳です。こうなると、論理的な反論に対しても「揚げ足取り」としか感じないのかも知れません。なので、本人としては自分の研究は正しいと確信してしまいます。しかし、このような思考パターンは出発点の段階でつまづいています。

     マスコミ等でセンセーショナルに取り上げられる“研究”は往々にしてこんなのが多いと思います。ですから、簡単には信じないようにする方が得策でしょう。この「ゲーム脳」のように、わかりやすいキャッチフレーズを使っている奴は特に怪しいと思っていいでしょう。
    posted by Yosh at 19:39| Comment(0) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年01月29日

    未確定予告・マインドコントロールについて

     最近マスコミをにぎわしている「奇妙な共同生活」という例の話ですが、「あれのどこがいけないの?」と思う人も多いかと思います。まあ悪いかどうかは報道だけではわからないのですが、それでも少なくとも私の目には悪いことをしている可能性があるように映ります。それは、この件に恐らく「マインドコントロール」が関わっていそうだからです。

     というわけで、いつかは書こうと思っていたトピック「マインドコントロール」について書くときが来たのかなと思っています。テーマとしてはかなり重いのでちゃんとうまく書きあげられるかどうか自信がないのですが、一応予告まで。
    posted by Yosh at 10:42| Comment(0) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年01月19日

    脳という名のフィルター(カクテルパーティ効果、ほか)

     人間には目や鼻、耳などの感覚器官がありますよね。目は外部から光を取り入れて映像をそのまま映し出しているように思えます。理科の授業で、レンズのようになっていて光を取り入れている図を習いましたよね? しかし、それは間違いとまでは言わないにせよ、人間の視覚という機能を本当にごく一部しか説明していません。たとえば、その図によると光は水晶体(レンズ)を通じて網膜(スクリーン)に反対に移っているはずです。おかしいと思いませんか?

     実は視覚にしろ嗅覚にしろ聴覚にしろ、外部の光や臭いや音をそのまま受け取るだけでおしまいにしている訳じゃありません。受け取った後に、脳がフィルターをかけているのです。別にイタズラをしている訳じゃありません。有用そうな情報を優先的に、わかりやすく表示するよう、がんばっているのです。実感できない? では、その一例である「カクテルパーティ効果」というものについて説明しましょう。

     ここはパーティ会場です。あなたはある人と会話を楽しんでいます。その人は大事な取引先の人でも、あこがれの人でも、かわいがっている後輩でも、今し方友人に紹介されたばかりの人でも、誰でも構いません。ともかく、会話は滞りなく進みます。ところで、これを録音していたとしましょう。後からその録音を聞いたらきっと驚くと思います。なぜなら周囲の会話の声があまりに大きくて、すごく聞き取りづらいはずだからです。こんな中で良く会話が成り立ったな、と。

     そんな騒々しいパーティ会場で会話が成り立っていたのは音を脳が調整してくれていたからです。必要な音は強調して、無駄な音は弱く。つまり、耳から入ってきた音を鼓膜が受け取り、それをそのまま脳が垂れ流しにはしていないのです。これを「カクテルパーティ効果」と呼びます。

     カクテルパーティ効果は聴覚に関するものですが、それと同じように視覚や嗅覚なども脳による調整が入ります。そして、世の中にはそのような脳の性質を逆用した物がたくさんあります。その最も単純な例は恐らく「絵」ではないでしょうか? 絵は平面に描かれますよね。ぺったんこ。でも、そのぺったんこな絵がどうして立体的に見えるのでしょうか? それは、脳が映像を処理しているからであると同時に、絵描きが人間の脳の性質を熟知していて、平面なのに立体的に見えるような描き方を知っているからです。

     さて、ここまで説明すれば最初に提起した問題にも答えが出ますよね。網膜に逆さまに移った映像を、なぜ我々が普通にまっすぐ見ているのか? それは、脳が調整してくれるからです。実はこれを証明した実験もあります。すべての映像を逆さまに映し出すめがねという物があります。これをかけて暮らすと数日で(期間には個人差があります)映像がまっすぐに見えるようになるということが実験により明らかになりました。本当に人間というのは良くできていますね。
    posted by Yosh at 02:55| Comment(5) | TrackBack(1) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年01月17日

    あっさり風味の精神病理学 (1)――神経症と精神病

     今回は精神科の病院が取り扱う病気について簡単に紹介します。精神疾患の分類は「昔ながらのわかりやすいが厳密性に欠ける分類」と「現代用いられている細分化されていてわかりにくい分類」がありますが、今回はわかりやすさ優先で古典的な分類を元に紹介していこうと思います。

     古典的な分類によると、精神疾患は大きく「神経症」と「精神病」に分けられます。比較的軽症でその代わり罹りやすく、原因が主にストレスなどによる心因性であると言われるのが神経症です。ドイツ語風に言う「ノイローゼ」の方がピンと来る人も多いかも知れません。人間誰しも完璧な健康体(身体疾患やその兆候が全くない)というわけにはいきませんが、それは精神疾患でも同じ。どんな人でもどこか少しおかしなところを抱えているものです。それが少し強くなったのが神経症です。

     神経症に分類される病名の内、比較的良く聞くものの名前をざっと挙げますと、「恐怖症」「記憶喪失(心因性のもの)」「ヒステリー」「多重人格」「強迫神経症」「(現代的には軽度の鬱病とされる)抑鬱神経症」といったところ(ただし病名についてはわかりやすさ優先で古い言い方や俗な言い方を採択しています)。

     精神病は神経症に比べ重症です。精神病の古典的な定義は「幻覚または妄想があること」です。ただしここで言う幻覚や妄想というのは、世間で俗っぽく使われる意味とは違いますので気をつけてください。よく「あらぬ妄想を抱いた。」などのように使いますが、それは精神医学的な意味での妄想とは違います。(俗な言い方は元々は誤例だったのですが、最近ではその“誤例”が国語辞典にも載るようになってしまい、面倒なことになってしまいました。)また、一部の脳内化学物質の異常が直接の原因となっていることが知られています。そしてその「直接の原因」を引き起こした原因がよくわからないものと、薬物やアルコールなど原因がわかりやすいものとかあります。

     精神病の代表格と言えば、かつては精神分裂病と呼ばれ名前だけだと多重人格と勘違いされることの多かった「統合失調症」と「(重度の)鬱病」の2種類が挙げられます。また、この古典的分類だと「薬物依存」や「認知症」も幻覚や妄想が見られると言うことで精神病の範疇に入ります。

     あっさり書いたつもりでしたが、あまりあっさりしてませんね。具体的な話が少ないからイメージしにくく、それで難しく感じられたかも知れません。次回以降はもう少しイメージしやすいように書いていきたいと思います。(いや、続けばね。)
    posted by Yosh at 13:37| Comment(2) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年01月16日

    バカにできない「年寄り」の知恵

     お年寄りをバカにしてはいけません。ただしここで言う「バカにしてはいけない」というのは、倫理面やモラル、感情面の話ではありません。そこは今回の話とは別です。今回取り上げたいのは、老人の知的能力についてです。(おっと、最近は「年寄り」「老人」はマイナスイメージがあるから「高齢者」って言わなきゃいけないんでしたっけ? なんかわざわざこういう言い換えをしなければならないこと自体が少子高齢化社会に対応できていない証拠だと思うんですが。)

     知的能力と言っても、かなり意味が広いですよね。知能をいろいろな要素に分解してみましょう。ざっと思いのままに挙げていくと、「記憶力」「計算能力」「語彙」「言葉を操る力」「空間把握能力」「問題解決力」などなど……。読者の方はさらにいろいろ挙げていけるかも知れません。また、これらの能力の「正確さ」と「スピード」という要素もあります。たとえば、計算は速いが間違いが多いということ(計算能力のスピードは良いが正確さが悪い)もあり得るでしょうし、言葉遣いは適切だが、その言葉が出るまで時間がかかる(言語を操る力の正確さは良いがスピードが悪い)というようなこともあるでしょう。

     そういった様々な知能が年齢と共に衰えるというのは、往々にして他ならぬ高齢者たち自身が日常の中で実感しているようです。しかしその実感も、よくよく調べてみたらあながち正しいとも言い切れないようです。

     たとえば語彙力。この語彙力はだいたい65歳くらいがピークのようです。その後緩やかに能力が落ちていきますが、たとえば現役バリバリと言われるような30台〜50台の人でも70台には負けています。当然ながら10台〜20台ではまったく歯が立ちません。他の能力もピークは多様ですが、決して悲観するような数字はほとんど出ていません。

     ではなぜ衰えたように思えるのでしょうか? それは、唯一どうしても若者に勝てない点があるからです。それは「スピード」です。一般的な認識で言う「衰え」のかなりの部分はこれだけで説明がつきます。実際、古い研究でもこの「スピード」の要因を考慮していなかったがために、老人の衰えを過大に評価してしまっていました。しかし高齢化が進むにつれて研究も進み、一見衰えたかに見えるような能力も時間さえ十分にあれば若・中年層とさほど遜色ない、あるいは分野によってはよりいっそうの能力を発揮できることがわかりました。昔から年寄りの知恵は大事にするように言われていますが、そのことが科学的にも証明されているのです。

    《余談ながら念のため》
     今回は高齢者の知的“能力”にスポットライトを当てました。そうは言っても能力があるから年寄りを大事にしろという風に主張しているわけではありませんのでお間違えのないよう。実際には能力のあるなしは個人によります(もちろんこれは若者でも同じことです)から、そこを基準に大事にするしないを決めるのは少し変です。そんなことを言い出したら赤ちゃんは役に立たない所か足手まといですし。
    posted by Yosh at 17:06| Comment(0) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年01月14日

    はたして「恋は盲目」か?

     新カテゴリー作りました。もともとはサイト“Yoshの日本一役に立たないRPGサイト”で“RPGに役に立つ(かも知れない)心理学コラム”というのを書いていました。ただ、更新の煩わしさから最近手をつけていませんでした。そこでブログ記事の形にして気軽に書いていこうかなと。

     さて、復帰第1回のテーマはタイトルにあるように、俗に言う「恋は盲目」というのが正しいのかどうかというお話。10年くらい前にたまたま見つけたアメリカの論文を紹介します。堅苦しい日本の学術雑誌ではとても見られないような投稿ですね。

     この研究ではカップルを対象に相手をどのくらいよく見ているのかを調査しました。その結果、相手のことは好ましくない点も含めよく見ていることがわかりました。「好きになったらあばたもえくぼ」ではなく、「好きだからこそあばたが気になる」とのこと。確かに口には出さなくてもいろんな仕草や態度、話し方や見た目ってのは単なる友達程度では気にならなくても恋人、夫婦だと気になるってのはわかる気がしますよね。というわけで結論としては「恋は盲目ではない」なのです。

     ……っていうか、「恋は盲目」ってそういう意味じゃないような気もするんだけどなぁ。どっちかというと恋をすると理性を失うというか情熱的に突っ走ってしまうというような意味だと思うんだけど。
    posted by Yosh at 11:40| Comment(12) | TrackBack(0) | つまみ食い心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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