先日、『
頭の体操 「ゆ」のつく女(ひと)』という記事を書きました。私は不思議とお名前に「ゆ」がつく女性に縁があるという話を引き合いに、頭の体操として「その理由を考えてみてください」という問いかけをしてみた訳です。その際には、いろんな方にたくさんのコメントを戴きました。みなさん本当にありがとうございます。
その一方で、「“ゆ”のつかない私はどうでもいいんかい?」という方もいらっしゃるかも知れません。逆に、私のことを嫌いな「ゆ」のつく女性(そのような人がここを見ているかどうか知りませんが)が、「縁があるなんてキモいこと言うな」とお怒りになっているかも知れません。いずれにせよ、大変失礼しました。でも、私が見つけた「答え」を読んでいただければお許しいただけると思います。
さて、今回は解答編として、私が見つけた3つの答えを紹介します。ただし、元記事にも書きましたが、なぞなぞやクイズではないので、必ずしも明快な答えという訳ではありません。また、私の思いついた答えがすべてではありません。でも、少なくとも大間違いではないとは思っています。
答え1:そもそも女性名に「ゆ」が多い
美紀さんのコメントにもあり、多くの皆さんが賛同されていましたが、その通りだと思います。私の知り合いやすい世代には、特に多いものと思われます。つまり、少々「ゆ」が付く女性の方をたくさん知っていても当たり前だというわけです。
答え2:単なる偶然である
単純です。偶然。もしクイズだったら、アンフェアな答えになると思います。しかし、現実の事態を分析する際に、「偶然」という要素は決して無視できるものではありません。なぜなら、人間の脳はものごとの理由を考える際に、偶然の要素を無視しすぎる傾向があるからです。
何かをありのままにではなく大ざっぱに捉え、他のものに関連づけようとする傾向は随所に見られます。以前、紹介したものを例に挙げると、「
基本的帰属錯誤」や「
カクテルパーティ効果」がありますね。それに「
予知夢の科学」という記事でも偶然を必然であるかのようにこじつける例を紹介しました。
納得がいかないでしょうか? では、こういう言い方をしてみてはどうでしょう。たとえばこの“偶然”が100人に1人にしか起こらないとしましょう。でもそういう人って、100人に1人はいるんですよ。ということは、たとえば広島市の人口は約100万人ですから、市に1万人は同じような人がいるという計算になります。
何かの原因を考える際に、「もしかしたらただの偶然かも知れない」という視点を持っておくことは非常に重要だと思います。じゃないと、いとも簡単に騙されちゃいますよ。たとえば悪徳宗教とかに。
答え3:考えていく内、無意識にわざと「ゆ」のつく人ばかりを探していた
これも、人間の脳の習性ですね。いったん関連づけちゃうと、それに都合の良い情報ばかりに目が行ってしまいます。(だから人の信念は簡単には揺らがないのです。)
実は私は、あとから考え直してみたら変な判断をたくさんしていました。特に重要なのが、何をもって「縁がある」とするのかをはっきりさせないまま考えていた点です。たとえばかつての恋人や好きになった人、親しい友達、苦い思いをさせられた人、この辺りまではよしとしましょう。そこから先、仕事で最近担当になったばかりのお客さんとか、音楽的に衝撃を受けた歌手とか、いつの間にかその辺りまで話を広げていました。後から考えると、さすがに我ながら無理があるなと思いましたね。
逆に、あとから冷静になって「ゆ」がつかない人を探してみたら、意外とたくさんいることがわかりました。たとえば、ちっちゃい頃良くしてくれていた家族や親戚は、縁があると言っていいはずなのに、まるっきり頭から抜け落ちていました。実は家族・親族で「ゆ」がつく人を1人しか思いつきません。大学院時代に共に戦った大事な戦友たちも、「ゆ」がつく人はいません。今の職場の仲間にも、いないです。インターネットを通じて知り合い、実際に会うことすらした人の中には、もう10年くらいのお付き合いになる方々もいらっしゃいます。もちろん皆さん大切な人です。……が、やっぱり「ゆ」はつかない。
以上が、私の思いついた“答え”です。まとめると、「当たり前だ」という要因、「偶然だ」という要因、「そうでもない」という要因の合わせ技ということになります。大量のもやっとボールが私の頭の上に降ってきそうな気配もしますが、でも世の中案外そんなもんだと思いますよ。